年惜しむ

 高座をじかに見たことはないが、亡くなって22年になる三代目古今亭志(し)ん朝(ちょう)さんの落語にもう長いこと、CDやDVDで親しんできた。時節柄、「富久(とみきゅう)」を久しぶりに聞いてみる▲年の暮れ、たいこ持ちの久蔵(きゅうぞう)がなけなしの銭で富くじ、今でいう宝くじを買ったが、しまっておいた長屋が焼けて…。サゲ(オチ)を知っているのに、はらはらする▲なぜだろう、古典落語は冬の噺(はなし)に名作が多い。これも年の瀬の噺「芝浜」では怠け者の男が財布を拾う。落語の中の人物はなにかとツイていて、努力に努力を重ねてやっと幸せをつかむという噺には、まず出くわさない▲人生の教科書には向かないが、いくらかの夢をくれる。落語とはそういうものかもしれない。現実の自分は、宝くじを買っては外れ、財布を拾っても届け出るだけだろう▲〈♪もういくつねると…〉の歌の通り、小さい頃は正月が待ち遠しかった。ささやかな夢をもらいつつ、どこかさみしさが漂う年の瀬に浸っていたいと思うようになったのは、いつからだろうか▲「年惜しむ」という季語がある。年の終わりの一刻一刻を指でなぞるようにたどる人が、昔からいたらしい。〈年惜しむ眼鏡のうちに目をつぶり〉鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)。夢の余韻に浸りながら、瞑目(めいもく)して名残を惜しみながら、行く年の背中を見送る。(徹)

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