八代亜紀「実は、お酒はあまり飲めない」弟分・新田純一が明かす意外な素顔と最期の様子【その日その瞬間】

新田純一(C)日刊ゲンダイ

【その日その瞬間】

新田純一さん
(俳優・歌手/61歳)

中森明菜や小泉今日子ら多くのトップアイドルを輩出した「花の82年組」として活躍した新田純一さん。その後は俳優として数多くのドラマに出演してきたが、昨年12月に亡くなった演歌歌手・八代亜紀さん(享年73)の番組などに弟分として出演することも多かった。新田さんのターニングポイントにもなった八代さんとの思い出などを聞いた。

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八代さんとの出会いは僕にとってはやはり大きかったですね。僕の妻・聡子は八代さんのヘアメークを29年間務めました。八代さんは僕と妻を引き合わせてくれたキューピッドなんです。

僕と八代さんの出会いは26歳の時。八代さんの座長公演にゲストで呼んでいただいたのがきっかけでした。その後も舞台やテレビ、八代さんのラジオ番組にも何度も。それで八代さんの事務所の社長やマネジャー、付き人のみなさんを含めて長くお付き合いさせていただきました。

僕が40歳になる手前の頃、僕と聡子が親しくなり、事実婚状態になると八代さんも応援してくれました。去年、還暦になるけじめとして籍を入れることになり、ナビゲーターとしてやらせていただいていた八代さんのラジオ番組「ムーンラウンジ八代」(ラジオ日本)の収録中、「婚姻届の証人になってください」とお願いしたところ「絶対別れちゃダメよ」と言いながら快諾してくださいました。八代さんから、本名の橋本明代で署名をもらったなんて、芸能界では数少ないのではないでしょうか。

病室に届けたコーンスープとシウマイ弁当

八代さんは絵描きですから、絵はもちろん一流ですが、字もうまい。平成から令和になった日、八代さんは仕事の後、僕も夕食の場に呼んでくださり、夕食後は八代さんの事務所へ。八代さんのCMのリバイバル放送を見ながら飲んでいたとき、マネジャーさんが「記念だから」と八代さんに色紙を渡し、筆で「令和」と書いてもらったんです。そのうちの1枚を我々にプレゼントしていただいたので、今でも自宅に大切に飾ってあります。

八代さんって本当に優しい。大歌手なのにまったく偉ぶらず、誰に対しても分け隔てせず裏表もない。理不尽なニュースなどに胸を痛めることはありましたが、引きずらない。そういう方でした。

去年9月、八代さんは膠原病で入院。その約1週間前、八代さんの番組「歌の贈りもの」(BS11)の特番の撮影で、一緒に香川ロケに行ったばかりだったのに。結果的にこれが八代さんの最後のロケの仕事になってしまいました。

この時も早朝から移動や撮影で疲れ、翌朝も早いのに、夜の食事会を終えると、プロデューサーやADら10人以上を自分のホテルの部屋に呼んでコンビニで買ったお酒やつまみで大宴会を開いてくれました。「○○くん、ちゃんと飲んでる?」って若い子たちにまで声をかけて。

八代さん、実はお酒はあまり飲めないんですよ。お酢が好きで持ち歩いていろんなものにかけて食べていましたね。1週間前まで、そんないつもと変わらない八代さんだったのに、突然、入院なんてビックリしました。病室への面会は社長やマネジャーなど、ごく一部の人だけ。聡子は入れましたが、僕は入れなかったので、僕は聡子の手助けをしたり、「ムーンラウンジ八代」の留守番(代役)を務めさせていただいたりしました。

八代さんが入院していたのは病院の特別室。入院当初は出された食事を食べ、治療に努めていました。でも、やはり飽きるんでしょうね。八代さんが「コーンスープが飲みたい」と言い始め、本当はいけないのですが、僕が買って持って行くように。病室には聡子が届け、駐車場にいる僕が病室の八代さんと携帯のテレビ電話で話したこともありました。

八代さんは地方公演などで新幹線に乗る時はいつも崎陽軒のシウマイ弁当を食べていたので、11月末には「シウマイ弁当が食べたい」とも。聡子が買って持っていくと普段は小食の八代さんが完食したと。聡子によると翌朝も「お腹がすいた」と目覚めたくらい。

ですから、てっきり回復に向かっていると思っていたんです。テレビでニュースやバラエティー、ゴルフ番組などをご覧になっているほどだと聞いていましたし。

ところが、12月30日に社長さんから「危険な状態なので急いできてください」と連絡が入りました。僕が聡子を車で送り届けたら「新田さんも上がってきてください」と言われ、急いで病室に入りました。ベッドに横たわり目を閉じている八代さんに、みんなで「頑張って」などと口々に声をかけたのですが、かないませんでした……。

翌日の大晦日、みんなで八代さんのご自宅に集まり、八代さんに献杯しました。こんなにあっという間に逝かれるとは思いもしなかったので、もう嘘なのか本当なのかわからない感じでした。そんな思いが何日も続きましたね。

八代さんは生前、聡子に「最後まで私をキレイに見えるようにお願いね」「棺には大好物の焼き芋を入れてね」と冗談交じりで話していたそうです。まさか本当にそうすることになるなんて。

この4月、代役を務めていたラジオ番組「ムーンラウンジ八代」は「八代亜紀さん“想い出通り”」と番組名を変え、八代さんと縁の深いゲストと八代さんの曲を聴きながら、思い出話を語っていただく番組に。歌手・神野美伽さんや元付き人の女優さんらが来てくれて、先日は歌手・日野美歌さんがいらして号泣。僕も一緒に泣いてしまいました。

八代さんの歌って、素晴らしい曲がいっぱいありますよね。僕が一番好きな歌は「花(ブーケ)束」。演歌っぽくない曲で、いじらしい女心を八代さんがかわいらしく歌っている曲です。

トラウマになっている父親の延命措置をしない選択

16年前に72歳で亡くなったオヤジの死も僕にとって大きなターニングポイントでした。オヤジは1978年に「夢追い酒」が大ヒットした渥美二郎さんのバックバンドでバンドマスターなどを務めたトランペッター(ビン筒井)。僕の芸能活動もいつも応援してくれていました。

オヤジは糖尿病で、重い脳梗塞を発症してしまい、一人息子の僕が延命措置をとるかどうかの選択を迫られました。ゴルフ好きで、元気な頃「ゴルフができなくなったら死んだ方がいいよ」と話していたことを思い出しました。お医者さんに「延命措置をして回復したら、ゴルフができるようになる確率がほんの少しでもありますか」と聞いたら、「やるどころか、ゴルフ番組を見ることさえできない」と。ショックでした。迷いに迷った末に結局、オヤジの言葉を尊重し、延命措置をしない選択をしました。

でも、オヤジのバイタルサイン(呼吸や体温など生命活動における重要な指標)がどんどん下がっていくのを、ただ見守ることしかできないのはつらかった。僕の選択は本当に正しかったのか。僕がオヤジの死を決めてしまったようで今もトラウマになっています。

オヤジは脳梗塞で倒れる前、軽い心筋梗塞を患ったんです。その時に事の重大さに気づいて、たばこや酒を何としてもやめさせておけばよかった……今もその後悔がぬぐえません。

オヤジが亡くなった時、僕は45歳。普通に元気だったので病気や体のことは気にしていなかったのですが、オヤジの死をきっかけに健康について少しずつ勉強を始めました。

芸能界は見た目も大事ですし、いつまでも若々しく元気でいたい! という思いから学びを深め、たどり着いた美容健康法がファスティング(断食)でした。今から8年ほど前のことです。

ファスティングの中でも、効率よく細胞に働きかける「ミネラルファスティング」というメソッドで、食を改めることの大切さを知識と実践から学ぶものでした。僕自身も、これこそが美容・健康の原点だと体験を通じて確信しました。

そしてもっと詳しく学びたいと、一般社団法人分子整合医学美容食育協会が認定するファスティングマイスター初級を取得。続けて2級まで資格を取得しました。そしてご縁をいただき、今は協会が運営するミネラルファスティング指導者の育成団体「ファスティングマイスター学院」の顧問を務めています。

7年前には母も亡くなり、その後コロナや八代さんのこともあり、ますます健康の大切さを痛感しています。健康で楽しくいつまでも若々しく元気に生きることが大事です。

芸能活動と並行しながらファスティングマイスターとして、少しでも多くの方が健康で楽しく長生きするためのサポートをさせていただきたいと思っています。

(聞き手=中野裕子)

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