出生体重4980g。出生時のトラブルで右腕が動かない体に。18歳で結婚し、今は6人の子どもの母に【体験談】

出生当時のSUZUさん。分娩時のトラブルで右腕にまひが残っています。

宮城県仙台市で似顔絵制作を行っているSUZUさん(30歳)は、出生時のトラブルで、右腕にまひが残っています。「分娩まひ」という分娩時に腕の神経が損傷を受けたことにより生じたものです。SUZUさんは現在6人の子の母親ですが、SUZUさんが生まれたときの様子、腕がみんなと違うということに気づいたころのことについて聞きました。全3回のインタビューの1回目です。

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推定体重3500g。経腟分娩で出生するも、生まれる途中で肩がひっかかってしまう

出生時4980gもある大きな赤ちゃんでした。出生時に右腕が引っかかりまひしてしまいました。

――SUZUさんは出生時に右手がまひしてしまったと聞きました。どんな様子だったか教えてください。

SUZUさん(以下敬称略) 私は6人きょうだいの末っ子で、母のおなかにいるときは、まったく問題はありませんでした。推定体重は3500g前後ということで、経腟分娩でした。

母は、私の妊娠がわかったとき離婚していたんです。それでも「絶対この子を育てる」と、シングルマザーとして出産する決意をしたそうです。

兄姉たちが生まれるときは、いつも自然に陣痛が来なかったため、陣痛促進剤を使用していたとのことです。私のときも同様の対応がとられることになりました。
双子の兄たちを出産する際も、母は帝王切開ではなく、経腟分娩でした。6人目ということ、双子も出産しているということで、ある意味ベテラン妊婦さんだったと思います。

そんな母は、私を産むときは「これまでとは様子が違う・・・」と感じたらしくて・・・。出産経験が多い母が異変を感じるのはよっぽどのことだったんだと思います。

――具体的にどんな違いを感じていたのでしょうか?

SUZU 陣痛促進剤を使って陣痛がきているときに、赤ちゃんには骨盤のほうに下りてきてほしいのに、上に上がってくる感じがあったと言うんです。胃が押され、口から赤ちゃんが出てきそうな感じがして気持ちが悪くなったと言っていました。

助産師にも伝えたのですが「陣痛促進剤を打ったらよくあることです」と言われたらしいです。おそらく、この時点ですぐ帝王切開に切り替えていれば、私の体にまひが残ることはなかったと思います。でも、ちょうど医師がその場にいなかったこともあったのか、そのままお産は進められました。

私の頭が出て、右腕が出てきました。ところが肩が引っかかってしまい、体が出てこなかったのです。医師が来るまで30分くらいその状態だった、と母は覚えています。ようやく医師が来て、母のおなかを押したり私の右手を引っ張ったりして、なんとかとり上げることができました。母もこれまで経験したことがないほど壮絶なお産だったとのことでした。

生まれても私は泣かず、30~40分くらいしてようやく小さい声で泣き始めたと言っていました。母もどうしていいかわからず、医師たちに任せるしかありませんでした。翌日「もしかしたら赤ちゃんの腕に障害が残り、動かないかもしれない」と告げられたそうです。

――出生時に体が引っかかったのが原因だったのでしょうか。

SUZU そうです。右腕を引っ張ったときに、神経が切れてしまったようです。胎児の体が大きいと「分娩まひ」といって、出生時に母体に胎児の体が引っかかり神経が切れてまひが残る場合があるそうです。
おなかの中にいるときに3500gくらいと推定されていた私の出生体重は、4980gもありました。分娩まひは大きな赤ちゃんの起こることが多いそうです。

幼少時は右手がまひしているのが自然な状態だった

右腕はまひしていても、活発で元気な子でした。

――大変なお産だったと思います。SUZUさんの右腕はどんな状態だったのでしょうか?

SUZU 現在も変わらないのですが、右手は肩から指先までまひが残っています。触れられてもわからないし、痛みも感じません。手を上げるのも難しいです。腕の内側だけ神経がわずかにつながっていて、少しだけ感覚があります。

生まれてからは腕以外は元気に成長していきました。出生時の体重は4980gでしたが、1カ月健診のときは5200gくらいで、1歳ごろには平均体重くらいになっていました。出生時、すごく大きかったから、そのまま成長していくだろうと思われていましたが、生まれてからはそれほどでもなく、平均的な体重におさまりました。

――SUZUさん自身が、右手のまひを自覚したのはいつごろでしょうか?

SUZU 幼稚園のころまではまったく気づきませんでした。私にとっては右手が使えないのが普通だったから、全部左手を使っていました。跳び箱も6段くらいを片手で飛んでいたし、友だちとキャッチボールをするときも、グローブをした左手でボールを取って、グローブをはずして左手で投げていました。ラジオ体操でも右手をあげられなかったですが、私にとってはごく当たり前のことでした。ほかの人と違うことにまったく気づかなかったんです。

――文字や絵を書くのも左手でしたか?

SUZU 最初は左手でしたが、母が「絶対ペンだけは右手を使わせる」と言って、右手で練習させられました。母としては、少しでもリハビリになればいいと思っていたようです。腕の内側の神経が少し残っていたことで右手で筆記用具を持つことはできました。

4歳くらいのころから絵を描き始めましたが、自然とペンを左手で持ってしまいます。そのたびに母から「右手を使いなさい」と直されました。黒板やホワイトボードに書くときは右手があがらないので左手を使いましたし、はさみやお箸も左手を使っていました。

小学2年生で障害者手帳を交付され、「自分はほかの子と違う」と自覚

小学2年生のころ、自分に障害があると気づきました。

――SUZUさん自身が障害を自覚したのはいつごろですか?

SUZU 自分に障害があると自覚したのは小学2年生で初めて障害者手帳をもらったときです。それまでは幼かったから、具体的にどれくらいのまひが残るのかわかりませんでした。小学2年生のとき、ようやく障害の等級が確定したんです。

障害者手帳をもらったとき、学校で先生がみんなの前で「SUZUさんは障害者手帳を受給されました。でも、以前と変わらず仲よくしてください」と発表したんです。

もちろん、先生は右手が使えない私に配慮してくれたんだと思います。でも、それが裏目に出てしまいました。小学2年生の子どもたちは容赦がなくて「SUZUは障害者だ」と、はやし立ててきました。そのときに「自分はほかの人とは違うんだ」とショックを受けました。

――それまでは、とくに不便を感じなかったのでしょうか?

SUZU そうです。振り返ってみると、母や先生方が気配りしてくれていたんです。たとえば、洋服のボタンを1人では留められなかったから、ボタンのない服を選んでくれていました。髪の毛も毎日母が洗ってくれて、朝もきれいに結んでくれていたから気になりませんでした。

学校でも、掃除の時間はぞうきんがけができず、机も動かせません。私はいつもほうきで掃く係だったんです。体育の時間も基本的に見学でした。幼稚園のころは体が小さく軽いから自由に動けて跳び箱もできました。でも、成長してくると体も大きくなります。運動をしたときに、左手だけでは体を支えられないおそれがあります。万が一のけがなどで、わずかにつながっている神経が切れるおそれがあると医師に言われました。だから、体育の時間も休んでいたんです。

私自身は活発で体を動かすのが大好きなタイプだったため、好きなことができないもどかしさがありました。

中学時代にできた友だちからも、仲間はずれに

小学生のころから、周囲の子との接し方に悩むようになりました。

――小学校も中学校も通常学級だったのですか?

SUZU はい。ずっと通常学級でした。私が中学生になった途中で、4~5校くらいの中学校が1校に合併したんです。それで、一気に同級生が増えて1学年7クラスくらいになりました。

小学校のときはいじめられていたけれど、中学生になって同級生が増えたおかげで、友だちがたくさんできたんです。そのころはすごく楽しく過ごしていました。

でも、やっぱり私が掃除や体育をしないのが気になった生徒がいたようで、先生に確認したらしいんです。そうしたら、先生がまた全員の前で「SUZUさんは右腕に障害があります」と話をしたんです。すると、翌日から仲よくしていた子たちに無視されるようになってしまいました。

――同級生たちはどんな心境だったのでしょうか。

SUZU 私も学校に行きたくなくなって、あまり通わなくなってしまったんです。先生から「何かありましたか?」と聞かれたから「だれも話してくれなくなったんです」と答えました。

先生が、話をしてくれなくなった子たちから事情を聞いたら「障害者の子と友だちだと思われたくない」とのことでした。小学生のころ、いじめられた経験もあるからショックでした。彼女たちも、ちょうど思春期で、まわりの目も気になる時期だったから、私とどう接したらいいのかわからなかったんだと思います。

もし私自身が障害を受け入れていて「私、右手がまひしているんだ」と明るく言えるタイプだったら、周囲の反応も違ったのかもしれません。でも、右手が思うように動かないのは自分自身でも簡単に受け入れられない事実でした。それで中学2年生くらいからずっと不登校になってしまったんです。中学3年生になって、周囲が本格的に受験勉強を始めるころ、やっと少しずつ学校に行けるようになりました。給食だけ食べて1~2時間くらい勉強したら帰るような生活をしていました。

17歳で高校を退学し自立。中学時代の同級生たちとは和解できることに

高校を退学し、17歳で自立しました。

――中学卒業後はどんな進路を選んだのでしょうか?

SUZU 公立の高校に通うことになりました。ただ、私が高校1年生のときに母が高血圧と疲労骨折で倒れてしまったんです。その後脳梗塞にもなり、私は学校に通うどころではなくなりました。そこで自立しようと思って高校を退学し、アルバイトをして生計を立てることにしました。

いろいろ大変なこともありましたが、私が結婚するときに、中学時代に急に離れてしまった子たちの数人から「あのときは本当にごめんなさい」と長文のメールが来たんです。彼女たちにとっても、ずっと私との関係がこじれたのを申し訳ないと思っていたみたいです。私も彼女たちだけが悪いわけではないと思っています。まだ子どもだったし、本当にどうしたらいいのかわからなかったんだろうなと感じています。

――SUZUさんが自身の障害を受け入れられたのはいつごろでしょうか?

SUZU ここ2~3年、ようやく認められるようになったかもしれません。でも、いまだに「障害がなければよかったのに」と思うことがあります。たぶん、すべてを受け入れることは一生難しいのではないかと思います。それでも、SNSで障害について発信することでいろんな人と出会えたり、取材される機会があったりするのは感謝しかないです。
普通だったら経験できないことを経験できているのは今の体で産まれたからこそだと思っています。それに、人の気持ちもわかるようなったと思います。

17歳で夫と知り合い、18歳で結婚して、今では12歳から生後4カ月まで6人の子どもがいます。右手がまひした状態での子育ては大変なこともありますが、夫にサポートをしてもらいながら、毎日とてもにぎやかな生活です。

お話・写真提供/SUZUさん 取材・文/齋田多恵、たまひよONLINE編集部

これまでの経験を話すSUZUさんの様子は、大変な思いをしてきたとは思えないほど明るく感じられました。出生時の対応しだいでまひは残らなかったかもしれません。多くの人に分娩まひについて知ってもらうことを願っているとのことでした。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年5月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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