蹴球放浪家・後藤健生は、さまざまな国を歩いてきた。また、多くの歴史の転換点も目にしてきた。サッカーもまた、時代の変化を象徴することがあるのだ。
■韓国との定期戦で「0対3」の完敗
僕が初めて韓国に行ったのは、1982年3月の第10回日韓(韓日)定期戦のときでした。毎年、東京とソウルで代表同士の試合と大学選抜同士の試合が行われた大会でした。
ソウルの東大門運動場で行われた定期戦は、森孝慈監督率いる日本代表が韓国に0対3で完敗を喫してしまいました。スタンドも満員にはならず、何か拍子抜けするような試合でした。
当時の日韓両国の実力では、アウェーで日本代表が勝てるとは誰も思っていませんでした。2年後、1984年の第12回定期戦で日本はアウェーで初めて韓国に勝利しましたが、このとき、韓国は事実上の2軍を出場させていたのでした。
そのとき以来、僕はしょっちゅう韓国を訪れました。1986年にはアジア大会、1988年にはソウル・オリンピックもありました(1985年には北朝鮮にも行きました)。そして、いろいろな年代の韓国人と話をしました(当時は戦前の教育を受けた人が多く、年配の人は日本語が話せる人がたくさんいました)。
そこで、僕が「ソ連や中国、北朝鮮に行ったことがある」と言うと、彼らは興味津々でどんな国だったか次々に質問を浴びせてきました。中国やソ連は地理的には韓国から近く、第2次世界大戦前には交流も多かった地域です。そして、もちろん北朝鮮と韓国は一つの国でした。しかし、今は訪れることのできなくなっている国の様子を知りたがっていたのです。
■秘密裏に「国交樹立」の交渉
その韓国と中国は1980年代に入ると、秘密裏に国交樹立の交渉を始めます。
1971年には、アメリカのニクソン大統領が訪中します。中国は1960年代末からソ連と激しく対立するようになったので、“敵の敵”であるアメリカと手を握ろうとしたのです。韓国としては中国と国交を結べれば、北朝鮮に大打撃を与えられます。
経済改革に乗り出した中国にとっては、経済発展を遂げた韓国との関係強化も魅力的でした。
韓中国交正常化への動き……。
その劇的な舞台が1986年にソウルで開催された第10回アジア競技大会でした。まだ国交もなく、定期便もなかったのですが、中国の大選手団は直行のチャーター便で乗り込んできました(北朝鮮はボイコットしました)。
■夜空にはためいた「五星紅旗」
1986年10月5日には蚕室(チャムシル)の主競技場で閉会式が行われました。
当時、アジア大会では、閉会式前の最後の競技としてサッカーの決勝戦が行われることになっていました。その決勝戦では韓国がサウジアラビアに2対0で完勝し、スタジアムは大いに盛り上がりました(ちなみに、日本代表はネパールとバングラデシュには勝利したものの、イラン、クウェートに敗れてグループリーグ敗退に終わっていました)。
そして迎えた閉会式。そこで、長く敵対関係にあった中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」が演奏され、国旗「五星紅旗」がソウルの夜空に掲揚されたのです。なぜなら、4年後のアジア大会の開催地が中国の北京だったからです。
僕は、まさに東アジアの国際政治の動きを象徴するような閉会式の目撃者となったのです。