【名馬列伝】“幻の三冠馬”フジキセキ。4戦4勝でターフ去るも、父サンデーサイレンス繁栄の一端を担った太く短い生涯

日本ダービー、ジャパンカップを制したジャングルポケットをはじめ、ヒシミラクル(菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念)、ノースフライト(安田記念、マイルチャンピオンシップ)、ヒシアケボノ(スプリンターズステークス)、シスタートウショウ(桜花賞)など、数々のGⅠウィナーの手綱を取った角田晃一(現調教師)が、「ジャングルポケットと比べて、どちらが強かったか?」と問われた際、彼が躊躇なく挙げた馬の名前は「フジキセキ」だった。

朝日杯3歳ステークスを制してはいるが、GⅠタイトルは、このひとつのみ。わずか4戦で引退してしまったフジキセキが、実際に手綱を握った騎手からビッグタイトルを二つも持つジャングルポケットより強いと評価され、多くのマスコミや競馬ファンも疑うことなく角田のコメントを受け入れた。それだけ、フジキセキがターフに刻んだインパクトは鮮烈なものだった。
1994年。夏から秋へかけての話題は、産駒デビューの初年度から次々と勝ち馬を送り出していた1頭の種牡馬、サンデーサイレンスの話題で持ち切りだった。

89年の米三冠レースのうちの二つ、ケンタッキーダービーとプリークネスステークスを制し、秋には古馬の強豪をねじ伏せてブリーダーズカップ・クラシックも圧勝。同年のエクリプス賞年度代表馬に選出された米競馬史上に残る名馬。それが、サンデーサイレンスである。

社台グループの創始者、吉田善哉の尽力によって、掛け値なしの米最強馬が種牡馬活動を日本でスタートするという壮挙は喝采をもって迎えられた。同時に花嫁には、サンデーサイレンスの格に見合う実績、血統、もしくはその両方を持ち合わせた選りすぐりの牝馬が用意された。フジキセキの母ミルレーサー(父Le Fabuleux)は名牝揃いの交配相手のなかでは傑出していたとは言い難かったが、産み出した仔の能力はデビュー前のトレーニングに携わった牧場スタッフが口を揃えて絶賛するほどに高かった。

それに加えてスタッフの間では、初年度産駒の中でも稀な父と同じ「青鹿毛」の毛色をまとって生を受けたことも、親譲りのハイスペックな能力の伝播を期待させる一因として口の端に上っていたというのも興味深い。 フジキセキのデビューは1994年8月20日の新潟・芝の1200m。鞍上は蛯名正義(現調教師)だった。当時は、初出走した開催内であれば最大4度まで新馬戦に出走できるというレギュレーションがあり、それは「折り返しの新馬戦」と呼ばれた。このレースの1番人気は「折り返し」での出走となった牝馬のシェルクイーンで、これが初戦となるフジキセキは2番人気に甘んじた。

スタートで大きく出遅れたフジキセキはリカバリーして3番手まで位置を押し上げる。そして直線へ向くと、あっさり先行勢を抜き去って独走態勢を作り上げ、ゴールではシェルクイーンに8馬身差、タイムにして1秒3もの差をつけて圧勝する衝撃的なデビューを飾った。

フジキセキはデビュー戦のあと休養に入り、充分に休養をとり成長を促されてからトレセンに帰厩。前走比+14キロで、10月のもみじステークス(OP、阪神・芝1600m)において鞍上に所属の渡辺栄厩舎(栗東)の主戦に乗り替わって戦線に復帰すると、単勝オッズ1.2倍の1番人気に推されてゲートインした。

スムーズにゲートを出たフジキセキは中団を進み、第3コーナーからポジションを上げながら2番手で直線へ向くと、まったくの馬なりで先頭に立ってレコードタイムで圧勝。しかも1馬身1/4差で2着に負かした馬は、翌年の日本ダービー馬となるタヤスツヨシだった。
続く旧3歳チャンピオン決定戦・朝日杯3歳ステークス(GⅠ、中山・芝1600m/現・朝日杯フューチュリティステークス)でも、単勝オッズ1,5倍の抜きんでた1番人気に推されたフジキセキは、先団から進んで直線では早めに先頭へ。最後は後方から追い込んだスキーキャプテンに迫られるなか、クビ差で勝利。差こそ小さかったが、フジキセキはノーステッキでの勝利であり、いわゆる「着差以上の強さ」で評判馬を退けたことは明らかだった。

このレースを受けて、「サンデーサイレンス産駒の一番馬」「(来年の)クラシックの主役」との評価が決定的になった。レース後、角田は「(他の馬とは)エンジンが違っている感じ。(2着のスキーキャプテンが)来たら、また伸びました。楽勝でした」と笑みを浮かべながらコメントした。 翌春の始動戦は、皐月賞トライアルの弥生賞(GⅡ.中山・芝2000m)。前日の雨で重となったが、スタートしてすぐさま2番手に付けると、直線では早めに先頭に立ってホッカイルソーに2馬身半差を付けて完勝。初めての道悪を気にすることなく、というよりも道悪で強さを余計に際立たせる結果となり、「一冠目は堅い」と誰しもが感じた。

しかし、現役生活の終わりは突然訪れた。

3月24日の朝、スタッフが馬房を見ると脚に不具合を生じたフジキセキがいた。馬房の羽目板が壊れており、どうやら板を蹴破った際に脚を痛めたようだった。すぐに検査をすると、左前肢に全治まで1年以上を要する重傷の屈腱炎を発症していることが判明。関係者が協議した結果、従前の能力を取り戻すのは難しいとの判断が下され、種牡馬入りすることが発表された。フジキセキは“幻のクラシックホース”として、現役生活に幕を閉じた。

現役を引退したフジキセキは、父のサンデーサイレンスも繋養されている社台スタリオンステーションにスタッドインし、早速その年から種牡馬生活に入った。人気が沸騰していたサンデーサイレンスを付けられなかった生産者の人気を集め、半分ほどのシーズンしか活動できなかったのにもかかわらず、100頭以上に種付けをした。

産駒の活躍に関してはややスロースターターだったが、2年目の産駒からスプリングステークス(GⅡ)を勝つダイタクリーヴァが出るなど、徐々に重賞で活躍する仔が目立つようになる。そんななか、豪州から声がかかる。北半球で半年、南半球で半年と、移動しながら供用される「シャトル種牡馬」になる。これは日本初ということで、大いに耳目を集めた。
その後、種牡馬として本領発揮し出してからの産駒の活躍は目覚ましかった。ジャパンカップダート(05、08年)などGⅠ・JpnⅠを7勝したカネヒキリをはじめ、ファイングレイン(高松宮記念)、コイウタ(ヴィクトリアマイル)、エイジアンウインズ(ヴィクトリアマイル)、ダノンシャンティ(NHKマイルカップ)、サダムパテック(マイルチャンピオンシップ)、ストレイトガール(ヴィクトリアマイル2勝、スプリンターズステークス)と続き、2011年生まれの世代からはついにクラシックホース、皐月賞を制するイスラボニータを出した。

また、シャトル種牡馬として渡った豪州産の仔からも、ドバイシーマクラシックなどを勝ったサンクラシーク(Sun Classique)が出たほか、日本に逆輸入されて高松宮記念を連覇するキンシャサノキセキも送り出した。

年間200頭以上に種付けする人気種牡馬として活躍したフジキセキは、2011年からは加齢の影響が顕著になったことから種牡馬生活からも退いて功労馬として余生を送り、2015年12月に頚椎損傷のため死亡した。23歳だった。

競走馬としては、「どこまで強かったのか」という謎を残して現役を引退し、その真価を種牡馬として証明していったフジキセキ。サンデーサイレンスの初年度産駒として、父の名を大きく高めた功労馬としての評価も忘れてはならない。(文中敬称略)

文●三好達彦

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