思わぬ乳がん告知 涙こらえる医師の前で「笑ってしまった」 抗がん剤治療を拒否、女性社長の不屈人生

がん闘病からカムバックを果たした『株式会社ミッション・ミッケ人生デザイン研究所』高衣紗彩社長【写真:本人提供】

「女性の仕事はお茶汲み・コピー取りといった現実に失望」 英語通訳、経済専門家へとスキルアップ

外資系金融企業で激務に追われる日々で、ないがしろにしてきた健康診断から、大病が判明した。バリキャリで仕事一筋だった47歳で乳がんの告知を受け、頭によぎったのは「これで大手を振って仕事を休める」という解放感だった――。乳房を4分の1切除する手術を受けて回復。闘病を機に人生を見つめ直して「楽しく幸せに働くこと」をモットーに掲げて起業し、カムバックを果たした60歳の女性社長がいる。事務職から奮起し、猛勉強で英語通訳になり、経済・金融への学びを深め、英国の大学で経営学修士(MBA)を取得。証券アナリストやファンドマネジャーとしてスキルアップを重ねてきた。限界を超え続けてきたビジネスライフ、紆余曲折の人生に迫った。(取材・文=吉原知也)

キャリアや資産形成の支援・研修サービスを提供する『株式会社ミッション・ミッケ人生デザイン研究所』を立ち上げ、起業家として活躍する高衣紗彩(たかごろも・さあや)社長。現状を打破し、自ら人生を切り開いてきた。

「私が社会人として働き始めた頃、女性は事務職になる以外選択肢がなく、女性の仕事はお茶汲み・コピー取りといった現実に失望しました。『もっと責任がある仕事がしたい』。これが私の原動力になりました」

転職活動に取り組み、外資系企業の面接を受けたが、英語力がないとダメだと言われ不採用に。2か所の通訳専門学校に通い、初級から最上級クラスにレベルアップ。英語通訳の職を得た。27歳の時だった。

金融・経済分野の通訳として海外エコノミストの講演会や商談などの会議通訳をこなしていったが、壁にぶつかった。「内容の理解度の部分で、専門家同士のやりとりに途中でついていけなくなるんです。言葉としては分かるので、英語を日本語、日本語を英語に置き換えて伝えることはできるのですが、専門的な話の中身まで理解しきれないことが出てきます。通訳あるあるで、もどかしい心境に陥ります。ちゃんと私自身が内容まで理解して通訳したいと思うようになりました」。そして、通訳の仕事を離れ、学び直しを決意した。

米国に留学後、日本のメジャーバンクの香港支店でリポート翻訳と通訳として働き始めた。「次第に、自分が分析論文を書きたくなっていきました」。しかし、一定の資格を保有していないとリポート作成業務には就けないルールがあった。MBAを取得するために英国の大学に2年間留学し、満を持して日本に帰国した。35歳。遅咲きの証券アナリストとして再スタートを切った。

想定外の修羅場を2回くぐり抜けた。2001年9月11日の米同時多発テロが起きた時は、駆け出しの頃。大慌ての顧客から「今後どうなるんだ」と問い合わせが殺到。先輩たちの助けを得ながら、大混乱を乗り切った。08年9月のリーマン・ショックは部下を持つリーダーとして顧客のパニックに対処していった。

人生を変えた大病に見舞われたのは、11年の初頭。部下の自己退職や異動が重なって1人で4人分の仕事を負担し、睡眠時間は4時間半で日々の仕事に忙殺されていた。会社の定期の健康診断は「私にとっては無駄な時間。受けたという事実を残すだけの作業と捉えていました」。左胸にしこりがあることは前から分かっていた。それでも、自分はパワフルで健康だと信じて疑わず、放置していた。再検査の通知があり、再検査の結果とともに、乳がんの告知を受けた。後の精密検査でステージ4だと判明した。「大きいしこりで、転移の可能性があり、末期かもしれない。ただ、胸を開いてみないと分からない。そう言われました」。主治医となった新人の女性医師は、目に涙を浮かべて告知と説明を行ったという。

しかし、自分は問題ないと信じてやまず、仕事のことで頭がいっぱいだった高衣社長は、驚くべき反応をしてしまった。「涙をこらえながら告知する先生の前で、ニコッと笑ってしまったんです。心の中では『やった!』って。あまりに仕事が忙しかったので、『これで堂々と会社を休める、解放される』と、その瞬間にこう思ったんです」。

抗がん剤治療を拒否 「治療において影響やリスクを引き受けるのも、患者自身」

その後は、病状や治療、今後の可能性について冷静に受け止めた。主治医や病院側と相談をしながら、アナリストの性分もあり、自らがん治療について調べ、考え、行動に移した。この過程において、抗がん剤治療は自らの意思で拒否した。「実は両親をがんで亡くしています。父は白血病、母は大腸がんで、2年の間に2人を亡くしました。両親は抗がん剤治療に取り組んだのですが、大変な思いをするところを目の当たりにしてきたので、私は選択しませんでした」と説明する。放射線治療は自ら専門医を探して施術を受けた。「東洋医学の先生のところにも通いました。先生からは『あなたは疲れを感じない病気なのです。疲れを感じるようになる薬が必要ですね』と言われました。自分は疲れ知らずだと思って働いてきたので、気付かされることがありました」と話す。

幸運にも米国帰りで最先端の技術を誇るベテラン執刀医による摘出手術を受け、成功。手術時に摘出した部分について、同時に背中の脂肪を用いて再建。乳房再建手術をする必要はなかった。術後数年は痛みを感じることがあったが、現在は乳輪付近の傷跡はほとんど分からないようになり、転移もなく、健康に暮らしている。

「私の場合は本当にラッキーが重なりました。ただ、胸のしこりには気付いていたのに、仕事を理由に検査や受診を先延ばしにしていたことについては、もっと早く対応できたと思っています。違和感があったら、すぐに医療機関へ検査に行くことをお伝えしたいです。それに、私は抗がん剤治療を拒否しましたが、治療において影響やリスクを引き受けるのも、患者自身です。自分の体のことです。医師の意見やアドバイスはもちろん尊重することが求められますが、自分自身がしっかり調べて、自分の頭で考えながら治療に取り組むことも大事だと考えています」と思いを明かす。

命には限りがある――。がん闘病を経て、再認識し、新たな人生を描き始めた。「自分が本当にやりたいことはどんなことだろう。病室で考え直しました。そう言えば、高校生の頃に、人間自体に興味がある、人の人生に関わりたいと考えていたなあって。大事なことを思い出すことができました。当時はサラリーマンながら高収入でした。でも、体力の限界が近付いていました。リーマン・ショック後、勤めていた会社もリストラの嵐が吹き荒れました。その数年前から部下を抱えるリーダーとして、『自らの才能を最大限に発揮し、会社に辞めないでくれと言われる人材になる』という方向性で、自ら学び、学んだことを取り入れて人材育成に励んでいました。これが奏功し、部員全員のリストラ回避に成功しました。この経験をもっと多くの社会人のキャリア形成、企業としての人的資源の活用に使ってもらえるのではないか、と。独立することを決めました」。

「個人個人が楽しく働けるようになれば、きっと経済の底上げにつながると信じています」

がん手術から2年後の13年に起業。「資産形成×キャリアデザイン×精神性の向上」の3本柱をテーマに、個人へのコーチング(相手の自己成長を支援するコミュニケーション技術)を通じた社会人塾『人生デザイン構築学校』を運営。卒業生は700人を超える。また、企業向けの人材活用研修などを行っている。

経済の専門家として、金融を巡る日本の現状に憂いの思いを持っている。新NISAがスタートし、これまでお金に関する話題を避けてきた人も資産運用に興味を持ち始めてきた。ただ、一喜一憂することに警鐘を鳴らす。

「ネットやSNSでは今、投資関連の情報があふれています。『いくら儲かった』『これだけ上がった』という発信を見ると、まだ投資を始めていない自分はなんとなく『損をした』という気持ちになるかもしれません。まず重要なのは、必要なお金は働いて得るということです。そのお金を運用して無理なく堅実に増やしていくことが基本になります。投資初心者にありがちなのは、感情に左右されてしまうことです。『自分が損をしている』と感じると、焦りや不安が生まれてきます。投資は感情的になると失敗しまいます。感情で動くのではなく、知識を持ち、しっかりと冷静な頭で考えること。一過性ではなく、生涯にわたって増え続けていく仕組みを構築することが大事です」と、メッセージを送る。

そして、閉塞感に包まれた日本の現状打破に向けて、経営者としてさらに注力する覚悟だ。「35歳の時に海外から帰ってきた時に、『日本は元気がない』と感じました。その状況は変わらずに、どんどん沈んでいます。『仕事って楽しいな』『自分を生かして社会に貢献でき、かつ報酬を得ることができて幸せだな』。日本中のビジネスパーソンの『仕事』の概念がそんな形に変化することを目指し、私自身も楽しく活動していきたいと思っています。個人個人が楽しく働けるようになれば、きっと経済の底上げにつながると信じています」と力強く語った。吉原知也

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