中森明菜「清瀬市への郷愁」と肉親への反発…駅100周年で大ヒット2曲が発車メロディーに

中森明菜(C)日刊ゲンダイ

中森明菜(58)と縁のある東京・清瀬市で、西武池袋線の清瀬駅の発車メロディーに明菜のヒット曲を採用して話題だ。清瀬駅の開業100周年を記念したもので、池袋方面に向かう上りホームでは「DESIRE-情熱-」が、下りホームで「セカンド・ラブ」のメロディーが流れ、往年の男性ファンは「跳びはねちゃいました」とテレビで喜びを語った。

明菜は大田区に生まれ、清瀬市で育った。小中学校も清瀬市立の卒業だ。

「2男4女の中森きょうだいは明菜さんのデビュー前、小中学校時代から有名だったそうです。ちょっと後に横浜銀蝿の『ツッパリHigh School Rock'n Roll』がはやって、歌われていたような不良スタイルだったとか。明菜さんも中学時代は長めのスカートを引きずって、革の通学かばんをぺたんこにしていたらしいですよ」と、明菜ウオッチャーの元芸能記者は懐かしむ。

やがて80年代のアイコン、アイドル歌手のトップへと走り出していくのは周知の通り。芸能マスコミの過熱取材は、清瀬市の実家や親族へも及んでいった。

「当時のアイドルたちと同じかそれ以上に、明菜さんのご実家も被害に遭ってました。今は亡きお母さんが、ほうきを振りかざして撃退したといったエピソードもひとつやふたつじゃありません。どう考えても、報道被害だったと思います。自戒を込めて」と、元記者は当時を振り返った。

売れっ子は睡眠時間も削るほどの過密スケジュールが当たり前だったが、明菜は実家で羽を休めることもできなかったのかも知れない。もともと歌手を志望したのは、大好きだったお母さんの、かなわなかった夢を代わりにかなえてあげるため。孝行娘は家族のために清瀬市に3階建てのビルを建ててあげた。家族もスターとなった明菜を応援するためもあってか、会社を設立して芸能界にタッチしていく。

「それらが、わだかまりのはじまり。お金の流れをめぐる不信感が生じ、また、自分の建てたビルでの事業もことごとくうまくいかず、その失敗も明菜さんのもとへ。最愛の母千恵子さんが1995年に亡くなったのを機に、そんな家族や親族との関係も断絶という流れになってしまったと聞いています」(元記者)

このほど明菜の実兄が週刊新潮の取材に語ったところによると、齢90となる父明男さんは昨年6月に転倒して以来、寝たきり。年末には腰を疲労骨折し、病院に入院しているそうだ。明男さんはかねて「明菜に会いたい」とメディアで訴え、次兄も「できたら会ってもらえたらうれしい」と同誌を通じて訴えている。

7月に6年半ぶりディナーショー開催

だが、それに今も明菜が応じていないとすれば、応じたくても応じられないトラウマもあるのではないか。芸能リポーターの平野早苗さんが言う。

「もともと自己肯定感が低く、でもせめて周囲の人には認めてもらいたい気持ちで、とても頑張った。そうやってスターになり、数々の栄誉に輝いてなお、それを素直に受け入れられなかった。そんな明菜さんの実像を見聞きすると、ご家族とのことも一言では説明できない、とても長い時間がかかるもののように想像します。信頼していた人を信頼できなくなったとすれば、さらに難しいところもあるのではないでしょうか」

そしてこう続けた。

「今また、復活へ向け、歩き始めている姿にこそ、明菜さんのメッセージがあると思って、応援していきたいですね」

清瀬駅には明菜の近影がある大きなボードが飾られ、そこにはこんな直筆メッセージが添えられている。

《清瀬駅100周年おめでとうございます》

7月には6年半ぶりにディナーショーを開催するなど復活に向けて動き出した明菜。郷愁と肉親への反発というアンビバレントな心情が透けて見える。

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