「次にバトンタッチできる準備をしないと絶えてしまう」ふるさとの誇り“井田ブルー”を未来へ

都市部への人口流出で地方の過疎化が日本各地で深刻化しています。静岡県沼津市の井田地区は50年以上前からすでに過疎化が深刻な状況でした。生まれ育った故郷、井田地区の存続を願う男性を取材しました。

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今から60年前、井田は山道と船が連絡手段で「陸の孤島」と呼ばれていました。

「外界から隔絶された陸の孤島だった。戦後はみかん栽培、数年前からは民宿を始める家が増えるようになった」

当時、井田には150人ほどが暮らしていましたが、現在は50人。井田小学校が閉校したのは、この入学式の4年後でした。

たった一人で井田小学校に入学した天野喜一朗さん(55)です。井田の海の目の前で暮らし、ダイビングサービスの経営をしています。

<天野喜一朗さん>
「ここは絶えず青い海が広がる、そして、沖合を見ると大きな魚の群れであるとか、あとは小さい魚、可愛い魚がすごくいる海です」

天野さんが生まれ育った井田の海の色は「井田ブルー」と称され、全国のダイバーを魅了しています。この海で天野さんはダイバーのガイドや四季折々の生き物などを撮影し、井田の海の魅力を発信しています。

<天野喜一朗さん>
「小さい時からずっと見ているこの海をお客様に紹介できることは幸せ。どこにも負けないような素晴らしい海なんで」

<天野さん家族>
「パパじゃん、おばあちゃんだ!」
「分かる?」
「少な!少な!」
Q井田地区にお子さんって何人います?
「4人だけ、ぼく、家だけ」
「番号」
「1、2、3、」

天野さんが東京へ進学、就職を経て井田に戻ったのは39歳の時でした。

<民宿天野荘 天野れい子さん>
「この村を良くするために戻った来たって言ってました」
Q当時ですか
「そうです。親はここへは置きたくなかったね。町へ置いときたかった。今は賑やかでいいですけど、まず、生活、今みたいにこういうの無かったからダイビングとかそういうのはね」

<天野喜一朗さん>
「高齢化が進んでいて、若者が入ってこれない状況にありますよね。やっぱり井田は井田のこの良さというのは、この自然が一番の売りなのかなって」

井田の魅力を発信し、人々が訪れて活気を生めば、故郷を守れると天野さんは考えます。

<天野喜一朗さん>
Q.富士山を撮っているんですか
「そうなんですよ」
Q.よく撮るんですか
「毎日です。この場所から。一番最初始めたのが、2009年の11月、11月から始めてますね。富士山のファンって沢山いますよね。そうするとどこからか辿ってここまで来てくれて声かけて頂いたりしてます」

天野さんは魅力の発信を海辺だけでなく、地域全体に広げる活動もしています。

<天野喜一朗さん>
「ここにいつか花が咲き乱れて、我々は平成の花咲じじいを目指して頑張っているんですけど、管理がとっても大切なんですね」

井田の歴史名所を巡る道沿いの景観を保つため、草刈りです。ここはかつてのみかん畑。井田を訪れた人に喜んでもらう為、そして、この地を離れて暮らす子どもや孫がいつ戻ってもいいようにと美しい里づくりに励みます。

<井田むらおこし委員会メンバー>
「四季折々の井田、キャッチフレーズは。菜の花は有名ですよね」
「いいと思いますよ、2月3月は。吉野が咲く頃きれいだね、すごい」

<天野喜一朗さん>
「次の人たちにバトンタッチ出来る準備を今しておかないと、ここ(井田)は絶えてしまう。みんなが一生懸命頑張って、いっぱい花を咲かせようと思っている想いの中でいやぁ、奇麗だねって言って頂くのがやっぱり、それと、また来るねとか、そういうの言って頂くとね最高の言葉ですよね」

井田で生きると決めた天野さん、故郷を守る活動を地道に積み重ね井田のいまを支えます。

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