<2>数々の証言、残した父 インパール作戦で進軍の高雄市郎さんと長男資久さん

中隊の集合写真を前に、過酷なインパール作戦の体験を語る高雄市郎さん=2015年2月12日、那須烏山市志鳥

インパール ■ 「みんな、人間じゃなくなっていった」

 無謀な行軍 理性失う  高雄市郎さん(93)(那須烏山)

 高雄市郎さんの自宅には1枚の集合写真が飾られている。

 「第33師団歩兵214連隊第6中隊勇士」

 撮影は1942年10月のビルマ。日本軍が制圧した5カ月後だ。

 「この頃は笑顔で迎えられた。『東方から神兵来たる』なんて言われてね」。英国の植民地を解放する重要な使命だと思っていた。

 インパール作戦が、その高揚を一変させた。

 「160人で出発して、最後は20人ですよ」

 写真に写った戦友を一人一人指さしていった。痛恨と、それぞれの死にざまがよみがえった。

 あれから70年。「この中で語れるのは私だけになってしまった」

◇ ◇ ◇

 44年3月、ビルマ戦線。上官から「3週間でインパールを落とす」と作戦を告げられた。

 インドとの国境にはアラカン山脈がそびえ立つ。古里で毎日見上げていた那須岳が脳裏をよぎった。「あの山をいくつも越えていくようなものだろうか」

 まだ日本軍が優勢だった余韻が漂っていた。「おれには弾は当たらない。最後は勝てる」

 当初、進軍は着実だった。それ自体が、連合国軍の術中にはまっているとは気付いていなかった。補給の届かない奥地に日本軍をおびき寄せる-。そんな戦略があった。

 インパールが近づくと、反撃は日々激しさを増していく。1発撃てば100発撃ち返された。戦車が容赦なく歩兵に襲い掛かった。

 背の高い仲間は壕(ごう)から出た頭を撃ち抜かれた。面倒見がよかった先輩は銃撃され、「残念だ」と叫び息絶えた。

 食料は、とうに尽きている。泥水を沸かし野草を入れて飢えをしのぐ。降り続く雨期の雨が、弱った体にこたえた。敵兵の死肉を食らう、仲間の食料を奪う部隊の話も絶えなかった。

 「みんな、人間じゃなくなっていった」

 撤退命令が出された時、既に4カ月がたっていた。

 撤退も凄惨(せいさん)だ。片方の膝から下を失いながら山道をはい上がる兵士、車座の爆死体も目撃した。

 道端に死体が連なり、「白骨街道」と呼ばれるようになっていた。

◇ ◇ ◇

 撃たれて死ぬことは、もう怖くなかった。食うことばかり考えた。

 耐え難い惨めさ、苦しみ。緒戦で死んだ戦友がうらやましかった。

 11月の戦闘で左脚を撃ち抜かれる。「これで後方に下げてもらえる」。今も痛む古傷はあの時、生への希望だった。

 「神風」は吹かなかった。

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長男・資久さんに聞く 生前の声「再び伝えて」

 1944年、太平洋戦争で旧日本軍がビルマ(現ミャンマー)からインド北東部の攻略を目指した「インパール作戦」。補給なき進軍は“最も無謀な戦い”と言われ、3万人を超える日本兵が戦死した。

 その作戦で辛くも生きながらえた高雄市郎(たかおいちろう)さんは戦後、戒めとして数々の証言を残してきた。戦後70年の2015年に載った本紙連載企画の記事の反響は大きく、東京の大学生が高雄さんを訪ねることもあった。「『戦争を二度としてはいけない』との言葉の本当の重さが少し分かった」。過酷な体験談をじかに聞き、印象を改めたという。

 「(自分が)子どもの頃は、戦地に行った人が何人もいたんだけどね」。高雄さんの長男資久(ともひさ)さん(72)=埼玉県=は、かつての戦友と語り合う在りし日の父の姿を浮かべる。高雄さんは22年、101歳で鬼籍に入った。

 特に高雄さんが親交を深めていたのが、同じくインパール作戦を経験した大田原市の鈴木公(すずきひろし)さん。その長女渡辺玲子(わたなべれいこ)さん(70)=那須塩原市=は「高雄さんの家に行くと、父は生き生きとしていた」と話す。鈴木さんも22年に、この世を去った。101歳だった。

 高雄さんは戦争に関わるいくつかの品も残した。陸軍大佐から授かった書状もある。「亡くなってから家の中はそのまま。資料を管理するのも大変」と資久さんは悩む。図書館に寄贈しようと考えたこともあったが、実現しなかった。

 間もなく戦後79年。体験を語れる人はもういないかもしれないと、資久さんはおもんぱかる。「体験者の話は事実。体験者以外の話は伝聞の歴史語り。余分な解釈が混ざり、本人が伝えたかったことが伝わらなくなる」と、簡単に語り部を引き継げるわけではないとの思いもある。

 ただ二度と戦争を起こさないよう、教訓を伝え続けるのは大切だと考えている。だからこそマスコミにも言いたいことがある。生前、積極的に取材に応じてきた高雄さん。「膨大な取材記録があるはずだ。語れる人がいないと嘆くのではなく、そうした生前の証言を再び伝えてもらいたい」。資久さんはそう願う。

1942年に撮影されたビルマ駐屯時の高雄さん(中央)
高雄市郎さんの思い出を振り返る長男の資久さん=4月上旬、那須烏山市志鳥

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