<3>多くの戦友、弔った余生 パラオ守備戦に参戦の倉田さんと親交のあった篠原さん

「勝っても負けても戦争はいけない。いかに政治的に解決するかが大切だ」と語る倉田洋二さん=2015年1月、東京都杉並区

 パラオ ■ 「泣きわめくこともできなかった」

 宇都宮の部隊も玉砕  倉田洋二さん(88)

 サイパン陥落-。1944年7月、倉田洋二さんは一報を耳にした。

 「次は我々の番だ」

 パラオでの配属先は宇都宮第14師団第59連隊。シベリア出兵や上海事変、日中戦争で戦果をあげ「関東軍の精鋭」と呼ばれていた。

 入隊後の3カ月間、銃剣やほふく前進といった訓練に明け暮れる。

 「タコ壺(つぼ)攻撃」にも備え、固い地盤に穴も掘った。掘った穴に爆弾を抱えて潜り込み、戦車を奇襲する自爆作戦だ。

 7歳まで那須で育った倉田さん。指導官になった第14師団の上官にも本県出身者が多かった。

 妥協を許さぬ厳しい指導。屈強な男たちが口にする栃木なまりにほっとして、会話も弾んだ。組織になじんでいった。

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 パラオでは、本島、ペリリュー島、アンガウル島に第14師団の各部隊が配備されていた。

 倉田さんは、9月に始まったアンガウル島の守備戦に参戦する。

 米国軍2万に対し、倉田さんが属する第59連隊第1大隊は1200。武器や弾薬、食料など物資供給の道も絶たれている。

 兵士は限られた物資を使い、「籠城戦」を繰り広げた。

 壕(ごう)や洞窟の中に仕立てた陣地に身を隠し、速射砲や銃、手榴弾(しゅりゅうだん)などで敵を急襲する。闇夜には刀で切り込んだ。

 砲弾を受けて、左半身に重傷を負った倉田さん。「傷の膿(うみ)をウジに食われ、手当て代わりになった」。眼前で手榴弾が飛び交い、上官らが次々と死んでいく。

 陣地を出ようにも脚が動かない。ただならぬ緊張感。泣きわめくこともできなかった。

 ゲリラ的な組織戦は33日間に及んだ。一日でも長く、「絶対国防圏」を守る戦いだった。

 倉田さんは米国軍に捕らわれた。

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 仲間たちは死んでいったのに、自分は捕虜となって生き残った。ずっと「負い目」を感じて生きてきた。

 終戦後勤めた東京都庁を退職後の96年、再びパラオに移住した。病気療養中の今は、東京の自宅とを往来しながら戦友の慰霊碑を守る。

 多くの戦友の遺骨がなお島に置き去りにされていること。それも気掛かりだ。

 政府援助を受け多くの米国人が遺骨収集に訪れるたび、日本政府の消極姿勢にいら立つ。「戦後処理は終わっていない。そんなだから政府が国民に信頼されないんだ」

 アンガウル島産のリン鉱石は、戦後日本の復興にも貢献した。

 「日本人、栃木の人たちにとって忘れてはならない島だ」

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親交のあった篠原さんに聞く 証言に「平和への思い」

 多くの日本兵が眠るパラオ。戦後50年が過ぎた1996年、戦友を弔うため倉田洋二(くらたようじ)さんは移住した。「死ぬときはここで。パラオの土になりたかった」。親交のあった宇都宮市西川田町、イラストレーター篠原直人(しのはらなおと)さん(41)は、倉田さんの言葉を今も覚えている。

 アンガウル島にある慰霊碑を整備し、倉田さんは供養に余生を費やした。「死に損なった」と、自責の念にかられていたという。

 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」。軍の教えを忠実に守るため米軍に捕まる直前、自決を決めた。手榴弾(しゅりゅうだん)に手をかけたが、不発に終わった。

 晩年は病気療養などもあり、沖縄県宮古島で過ごした。2019年、92歳で亡くなった。

 篠原さんはその10年前の09年、倉田さんと出会った。パラオの戦跡を知りたいと、現地を訪ねた。以降、何度も赴き交流を深めた。目前での仲間の死など過酷な体験でも、丁寧に語る倉田さんの姿が印象に残っているという。さまざまな証言の大前提に「平和への思いがあったことは間違いない」と振り返る。

 戦後70年に当たる15年の4月、天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)が激戦地の一つ、パラオ・ペリリュー島を訪れた。倉田さんはアンガウル島で玉砕した部隊の名簿を手に、両陛下と対面した。

 当時を伝える本紙には「両陛下の姿を見て、みんな喜んでいるはず」との倉田さんのコメントがつづられている。一方で篠原さんには、こうも打ち明けていたという。「本当は昭和天皇に来ていただきたかった」

 篠原さんは13年、仙台市を拠点とした陸軍第2師団戦友会の有志会の代表を引き継いだ。月に1回、戦争体験者の記憶を語り伝える集まりを開いた。しかし時がたつにつれ「戦友」たちは一人、また一人とこの世を去り、今は活動ができていない。

 「どのような形で戦争を伝えていくのがいいのか」。倉田さんの言葉を反すうしながら、篠原さんは考えを巡らす。戦争体験を次代へつなぐため、模索を続けている。

旧日本軍の47ミリ速射砲の残骸。戦後70年たった今も、アンガウル島には戦跡が残る(宇都宮市、篠原直人さん撮影)
倉田さんとの交流を語る篠原さん=5月13日午後、宇都宮市西川田町

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