【虎に翼】滝行もスルメもリアルだった!「家庭裁判所の父」と呼ばれた多岐川幸四郎(滝藤賢一)のモデル 宇田川潤四郎の半生とは

NHK朝ドラ『虎に翼』の登場人物のモデルが気になっている方、多いのではないでしょうか。作家 鷹橋 忍さんが、その実在モデルと思われる人物をひも解きます。第1回は、滝藤賢一さん演じる、ちょびひげが印象的な、多岐川幸四郎のモデルについて。

NHK連続テレビ小説『虎に翼』が、大人気ですね。
伊藤沙莉さんが演じる主人公の猪爪寅子をはじめ、ドラマには何人も魅力的な人物が登場していますが、ここでは実在の人物をモデルとしていると思しき登場人物を、ご紹介していきたいと思います。

初回は、寅子の上司・滝藤賢一さんが演じる多岐川幸四郎を取り上げます。

ドラマの多岐川は、滝行をしたり冷水をかぶったり、仕事中にスルメを焼いたり居眠りしたりと、個性的な振る舞いが目立ちますが、モデルとされるのは、どのような人物なのでしょうか。

モデルは「家庭裁判所の父」宇田川潤四郎?

多岐川幸四郎のモデルは、「家庭裁判所の父」と呼ばれた宇田川潤四郎といわれています。
宇田川は明治40年(1907)2月11日、東京で生まれました。

大正3年(1914)11月13日生まれの三淵嘉子(猪爪寅子)よりも、7歳年上となります。

松山ケンイチさんが演じる桂場等一郎のモデルと思しき石田和外より4歳年下で、沢村一樹さんが演じる久藤頼安のモデルと思われる内藤頼博より一つ年上です。

滝行で願掛け

ドラマの多岐川と同じように、宇田川もリーダーシップに優れ、バイタリティに溢れ、朗らかで人から好かれやすい性格であったといいます。

なお、宇田川も水をかぶったり、滝行を行なったりしていました(以上、清永聡『家庭裁判所物語』)。

宇田川自身の記述によれば、昭和17年(1942)頃から、冷水をかぶる「禊行」を、毎朝、実行していたそうです(最高裁判所家庭裁判所調査官研修所編『調研紀要』第12号所収 宇田川潤四郎「調研の発足について」)。

満州の教え子たちに救われる

宇田川は昭和4年(1929)年に早稲田大学を卒業し、高等文官試験司法科に合格して裁判官となり、昭和13年(1938)年、31歳の時に、妻子を連れて満州に赴任しました。
国務院総務庁人事処編纂『満洲国官吏録』によると、宇田川は満州で、新京高等法院の審判官(裁判官)兼新京地方法院審判官になっています。

その後は、中央司法職員訓練所の教官となり、中国人の優秀な若者たちに法律を教えました。
宇田川は教え子を家に招き、毎日のように夕食を共にし、大いに語り合ったといいます。

日本の敗戦により、昭和20年(1945)、満州国が消滅すると、同僚たちは逮捕され、宇田川もソ連軍から戦争犯罪人として指名手配されました。
ですが、宇田川を慕う教え子たちの尽力もあり、昭和21年(1946)8月、宇田川は妻と子供ら一家5人で、無事に帰国を果たしました。

妻の死

宇田川は満州から帰国した翌月の昭和21年(1946)9月、大阪地方裁判所の裁判官に復職し、刑事裁判に従事することとなりました。

妻子も宇田川と共に大阪に居を移しましたが、同年10月28日、妻の千代子が、腸チフスにより36歳で病死してしまいます。
苦楽を共にした妻の死に、宇田川は大変なショックを受けたといいます。

同年12月、宇田川は京都少年審判所の所長への転任を命じられました。このときの少年審判所は裁判所ではなく、少年事件の審判や保護を司る行政機関でした。

ドラマでも描かれたように、当時、街には戦争孤児などの浮浪児が溢れていました。その中には、生きるために窃盗などの犯罪を繰り返した子も多く、しかも、彼らを収容する施設もまったく足りていませんでした。

少年審判所長に着任した宇田川は、妻を失った悲しみを埋めるかのように、こうした子どもたちの救済のための活動に、人生を捧げていきます。

ドラマで、寅子の弟・三山凌輝さんが演じる猪爪直明が大学の仲間と行なっている、BBS運動(Big Brothers and Sisters Movement)も、その一つです。

BBS運動

BBS運動とは、様々な問題を抱える子どもたちに、兄や姉のような存在として遊び、相談に乗る、アメリカ発祥の青年ボランティア活動です。

宇田川の随筆集『家裁の窓から』によれば、宇田川は満州から帰国した直後に、神田の古本屋で僅かな引揚げ資金のなかから購入した『米国の少年裁判所』という本で、BBS運動を知り、これが日本の少年問題を解決する鍵になると確信しました。

このBBS運動を日本で最初に始めたのは、宇田川だといわれています(神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』)。
さらに宇田川は、京都の宇治市に自力で広大な敷地を確保し、昭和22年(1947)、宇治少年院を開設しました。

なお、この年の10月11日には、岩田剛典さんが演じた花岡悟のモデルといわれる山口良忠判事が、配給以外の食糧を拒み、栄養失調に伴う肺結核により、33歳で亡くなっています。

本当にスルメを焼き、居眠りをしていた?

宇田川の活躍は、東京にも届いていました。
昭和24年(1949)1月1日、全国に家庭裁判所が創設され、最高裁判所の事務総局に「家庭局」が新設されるにあたり、宇田川は家庭局長に抜擢されています。

このときの家庭局には、猪爪寅子のモデルである三淵嘉子(当時は和田姓)も、局付の事務官として、名を連ねていました。
宇田川はここでもリーダーシップを発揮し、家庭裁判所の発展に邁進していきます。
家庭局は自由な空気に満ちあふれ、上下の区別なく活発な議論が繰り広げられました。

ですが、宇田川は苦手な法律論の話題になると、会議中でも居眠りすることが多かったようです。

また家庭局では、七輪で干物を焼いたり、夜にはスルメやコロッケを肴に、お酒を嗜んだりすることもあったといいます(以上、清永聡『家庭裁判所物語』)。

宇田川は昭和32年(1957)まで、8年にもわたり、家庭局長を務めました。在籍の間に、現在にも受け継がれる、数々の制度が作られました。

その後、昭和44年(1969)に東京家庭裁判所の所長に就任し、ここで再び三淵嘉子と共に働くこととなります。


© 株式会社主婦の友社