医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態

送検のため大津署を出る桐生のぞみ容疑者(中央)=2018年6月6日午後

 医者になるよう強く要望した母親を殺害し、遺体を損壊、遺棄した長女の裁判があった。9年間の浪人生活を送り、母の異常な干渉で追い詰められていた被告を、判決は「同情の余地がある」と判断した。教育を理由に、親が子どもに無理難題を強いる「教育虐待」が社会問題になっている。教育虐待がエスカレートし、行き着いた悲劇的な結末。親子の間に一体何が起きていたのか。公判では長年にわたる異常な生活状況が浮かび上がった。(共同通信=斉藤彩)

 ▽勉強強いられ束縛の日々

 2018年3月、桐生しのぶさん=当時(58)=の切断された遺体が滋賀県内の河川敷などで見つかった。県警は同年6月、大学病院で看護師として働き始めていた31歳の長女のぞみ被告を死体遺棄、損壊容疑で逮捕、9月には殺人容疑で再逮捕した。今年2月に確定した大阪高裁の控訴審判決によると、のぞみ被告は滋賀県守山市内の当時の自宅で、しのぶさんの首を包丁で刺して殺害し、3月10日までの間に遺体をのこぎりなどで切断し捨てた。

家宅捜索が行われた桐生被告の自宅=2018年6月6日、滋賀県守山市

 裁判資料と被告への取材によると、のぞみ被告(34)は一人娘だった。昼夜を問わずメンテナンス関係の仕事をしていた会社員の父は、小学校高学年の頃に社員寮に別居。それ以来、のぞみ被告は母と2人暮らしだった。母はのぞみ被告が幼い頃から、通信教材を買い与え、将来は医師になることを切望した。被告自身も、手塚治虫の漫画「ブラックジャック」に憧れ、外科医の夢を抱いた。しかし中高では成績が伸び悩み、大学受験を控えた高3の頃までに、自身の希望は薄れていた。

 それでも母は願望を曲げず、自宅から通学圏内の国公立大の医学部医学科に進学するよう要求した。のぞみ被告は2005年、現役で国立大の医学部保健学科を受験し、不合格だった。だが母は、親族に対して「合格した」とうそをつき、のぞみ被告にも従うよう求めた。

 のぞみ被告は母の束縛から逃れるために就職を考えたものの、当時未成年だったこともあり、母の同意を得られず実現しなかった。束縛はエスカレートした。母は自由な時間を与えないようにと、一緒に入浴するよう求めた。携帯電話は取り上げられていた。被告は3回にわたり家出をしたが、母が手配した探偵や捜索願を受けた警察に見つかり、家に連れ戻された。

 そんな浪人生活が実に9年間に及んだ。母は助産師になることを条件に滋賀医科大学の医学部看護学科への受験を認め、2014年に合格。進学後は母との確執は一時和らいだ。学生生活を経て、被告は徐々に「手術室看護師」を志望するようになった。手術の執刀医にメスを手渡したり、患者の体位変換をしたり、手術の記録を取ったりする看護師のことだ。

 落ち着いていた環境が一変したのは大学2年生の終わりごろ。助産師課程の進級試験に不合格になったのを機に、束縛は再燃した。17年の夏には、当時4年生の被告に医大の付属病院から就職の内定が出ていたが、母は辞退して助産師学校に進学するよう迫った。受験に失敗したとしても看護師にはならずに、再受験を約束する誓約書まで書かせていた。同年12月に被告が母親の許可を得ずにスマートフォンを隠し持っていたことが分かると、庭で土下座させ、その様子を撮影した。スマホはブロックでたたき壊し、所有を認めていたもう一つの携帯電話に「ウザい!死んでくれ!」とショートメールを送って罵倒した。

 ▽疲弊の末…「モンスターを倒した」

 のぞみ被告の心は疲弊しきっていた。母から解放されるために、殺害したいと思うようになった。事件直前の18年1月にはインターネットで、刃物で死ぬ自殺方法や、頸動脈を切って即死させることができるかなどを調べた。

 「いろいろと追い詰められてきたなあ。チャンスは何回もあったのに決め切れてなかったことが悔やまれるぞ」「早く決めよう。怖じ気づくな。やっぱり明確で強い思いがないと無理だということがわかった。一応準備だけした」。メモ帳代わりに使っていたGメールの下書き機能を使い、そんなメモも残した。

 1月中旬に受けた助産師学校の試験は不合格だった。大学病院への就職手続きの期限が1週間後に迫り、母に「看護師になりたい」と本音を打ち明けた。だが「あんたが我を通して、私はまた不幸のどん底にたたき落とされた」と一蹴される。その後、母は夜通し怒鳴り続けた。被告の我慢は限界に達していた。1月19日のことだった。

 二審での被告の供述によれば、その日深夜、就寝前の母の体をマッサージした際、うつぶせになる母の首をもみ終えると、母は寝息を立てていた。被告は寝室に隠していた包丁を取り出し、母の首の左側を刺した。「痛い」という母の声を聞いて怖くなり、もう1、2回刺した。

桐生被告が母を殺害後に投稿したツイッターの投稿

 「モンスターを倒した。これで安心だ」。ほっとした被告は、自身のツイッターにそう投稿した。口から血を流し動かなくなった母を横目に、ずっと見たかった民間ボディーガードの主人公が活躍するドラマ「BG~身辺警護人~」を見た。肩の荷が下りたような感覚になっていた。遺体に毛布を掛け、その日は寝た。母の遺体を切断し、両手と両足を燃えるごみに出し、胴体は丸形ペールに入れて運び、守山町の旧野洲川の河川敷に捨てた。自宅から約250メートルしか離れていなかった。

 滋賀県守山市に発見され、警察が捜査に乗り出した。被告は死体遺棄容疑で6月に逮捕され、殺人容疑で9月に再逮捕された。近所の住人らは「近所づきあいのない家だった」「1週間前に犬の散歩をしているのを見て、あいさつした」「(娘さんは)医大を目指すぐらい勉強はできたが、コミュニケーションが不得意だった。(お母さんとは)一緒に買い物をするなど仲は良かった」と口々に言った。

 のぞみ被告は取り調べに、母の遺体を切断し、捨てたことは認めたものの、殺害についてはかたくなに否認し続けた。

女性の遺体の胴体部分が見つかった現場付近を調べる滋賀県警の捜査員=2018年3月14日、滋賀県守山市

 ▽同情示した一審判決後、殺害認める

 20年2月に始まった大津地裁の一審裁判員裁判でも、のぞみ被告は「母は自殺した」と、殺害を隠し続けたが、母には自殺の動機がなく、死亡時に被告と2人きりだったため、3月の判決公判では殺人の罪を認定。懲役15年の実刑(求刑懲役20年)が下った。その一方で判決は、被告の育った環境を「長年にわたり母子だけの閉鎖的な環境」と指摘。成人後も行きすぎた干渉を受け、相当に追い詰められた末に犯行に及び、経緯には同情の余地があると結論づけた。裁判長は「母に敷かれていたレールを歩み続けていたが、自分の人生を歩んでください」と説諭した。

桐生被告が記者に寄せた手紙。苦しかった母との生活などを綴っていた

 言い渡し後、被告は何度も判決文を読み直したという。「一審判決は、まるで自分のことをずっと横で見ていたかのようだった」(二審での被告供述)。誰にも理解されないと思っていた母との確執を認められたことで、真相を話し、罪と向き合うことを決めたのだという。判決後、滋賀県内の拘置所に面会に訪れた弁護人に、控訴審では殺人を認めると打ち明けた。

 大阪高裁での控訴審はその8カ月後。被告人質問で、一審で殺害を否定した理由を問われたのぞみ被告は「(父に)実の娘が母を刺したことを知られるのが怖かった」と打ち明けた。また、殺害を決意したきっかけは、スマホをたたき壊され、助産師学校に落ちた際に「裏切り者」「うそつき」と徹夜で叱責されたこと、と述べた。

 21年1月、控訴審判決で言い渡された判決は、懲役10年。一審判決から大幅に減刑した。のぞみ被告は時折ハンカチで目を押さえながら判決の読み上げを聞いた。

 「自白したように、罪と向き合い反省して償ってください。これからは自身の判断で進路を決めなくてはいけません。大変なこともあると思いますが、負けずに自分の選んだ道を歩むことで更生してほしいと思います」

 言い渡し後、裁判長が説諭すると、のぞみ被告は肩を震わせながら大きくうなずいた。控訴期限の2月上旬までに弁護側、検察側のいずれも控訴せず、刑が確定した。

 ▽接見で語られた後悔

 筆者はのぞみ被告と手紙のやりとりをし、二審判決の前後に7回ほど、大阪拘置所で接見している。自身が起こした取り返しがつかない出来事への向き合い方を一審から大きく変えたという被告。ずっと隠していた母の殺害をなぜ認めようと思ったのか。自分を追い詰めた母への思いに変わりはないのか。そんなことを聞いてみたかった。父が差し入れたというトレーナー姿で姿を見せた被告は深々とおじぎをし、よどみない言葉で語り始めた。

 ―お母さんはなぜ医者になることにこだわったのですか?

 「母はいわゆる教育ママでした。公立高校が進学校とされて、そこから東大や国公立医学部に行くのが滋賀県民のエリートコースだと言い聞かされていました。母はそのレールに私を乗せようとしました。母は工業高校を卒業したそうです。最終学歴が高卒であることを悔やんでいると何百回も聞かされました。学歴コンプレックスがあったのだと思います」

 「母の友人にNさんがいます。少し母より成績が劣っていたようですが、看護学校に行き、現在も看護師としてばりばり働いているそうです。母からは、看護師は介護士のように下の世話もしなければならない過酷な仕事と聞かされていました。今でこそ、新型コロナ流行もあって社会的に意義のある仕事というイメージがついていますが…。それから、母の実母の再婚相手が歯科医でした。医者が社会的に認められているのを肌で感じていたのかもしれません。まとめると、母は自分の学歴へのコンプレックス、看護師への偏見、医師への尊敬があったのだと思います」

 ―お母さんの教育をおかしい、つらいと思ったことはありますか?

 「仕方ないと思いました。受け入れるしかありませんでした。浪人生活で囚人のような生活を10年近く送っています。拘置所はルールさえ守っていれば叱責を受けることはありません。今のほうが気持ちとしては楽ですね。細かいルールが煩わしいこともありますが、刑務官は私に対して『うざい』とか『死ね』とか言うことはありません」

 ―逆に、厳しいしつけが役に立ったことは?

 「字は、検事さんにも『きれいだ』と言われました。母からは常日頃、『汚い』『ばかっぽい』と言われていたので、丁寧に書くようにしています。言葉遣い、箸の上げ下ろし、勉強の仕方を教え込まれました。むやみに人に聞くのではなく、自分で辞書を引いてみること、1回目は赤鉛筆、2回目は青鉛筆で線を引くように言われました。自分が単語をどれほど覚えていないかがよく分かりました」

 ―大阪拘置所に来て心境が変化しましたか?

 「滋賀では独居房でしたが、大阪では8人の雑居房にいます。母と同年代で、薬物関係で勾留されていた女性の被告数人に出会いました。母親である人も多く、自らの過ちのせいで子どもと離れ離れになり、申し訳なさや後悔を口にしていました。そこで、私の母がどんな風に私を思っていたのかを考えるようになりました。自分自身は良い娘ではなかったので、母の苦しみや焦燥を、もう少しちゃんと分かれば良かったです。自分のしたことを後悔しています。他の人には、実の母を殺したなんて言えません」

 ―事件を起こさないためにはどうしていたら良かったと思いますか?

 「当時の自分は助けを求めるべき状況だったと気づきました。でも助けを求める発想もなかったです。自分がされていることが虐待と気がついたら何か変わっていたと思います。気づくためにはそういうことがあると知ることが必要なので、(自分の事件を知ってもらうことで)気づくきっかけを提供したいと思っています」

桐生被告が寄せた手紙。字を丁寧に書くことは母からしつけられたという

 ▽外部に助けを

 この事件ほど極端なケースは珍しいが、親が「子どもの約束された将来のため」との名目で、受験勉強を無理強いしたり、日常生活を束縛したりする教育虐待の被害は後を絶たず、専門家も警鐘を鳴らしている。

 明治大の諸富祥彦(もろとみ・よしひこ)教授(臨床心理学)は教育虐待について、「子どもが別人格であることを認められず、親が自らの職業選択や進路の願望を押しつけてしまう。子どもが勉強しないと罵倒し、教育面で支配したり、拘束したりすることが起こる」と解説する。こうした問題は、特に同性の親子間に見られるようだ。

 諸富教授は「親の人生の願望を子どもに押しつけてはいけない。だが親はその自覚を持つのが難しく、外部の人間が介入できないと、対処は困難となる。子どもの立場からできるのは、外部に助けを求めること。スクールカウンセラーや児童相談所などを積極的に利用してほしい」と話している。

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