東日本大震災・原発事故10年 長崎と福島<中> 続く支援 必ず復興、信じて発信

福島県須賀川市の高齢者施設を訪れて被災地を励まし続けている川田さん=雲仙市国見町の自宅

 「こんなことになるなら、長生きしなければよかった」-。歌手の川田金太郎(61)は、ある高齢者の言葉が今も忘れられない。
 2011年3月14日。川田は雲仙市国見町の自宅で、東京電力福島第1原発事故を伝えるテレビ画面にくぎ付けになっていた。映し出されたのは故郷を追われ、避難を余儀なくされた高齢女性。その女性がインタビューに吐露したのが冒頭の言葉だ。「一生懸命生きてきただろうに…」。川田はやるせない思いで宙を見詰めた。
 ふと、父の生まれが福島県だったことを思い出した。場所は旧白方村(今の須賀川市)。すぐに現地の市役所に電話した。「おじいちゃん、おばあちゃんを励ましに歌いに行っていいですか」
 東京生まれの川田は、雲仙・普賢岳噴火災害のチャリティー活動をきっかけに1994年、同町へ移住。全国から続々と寄せられる温かい支援を目にしてきた。「今度はこっちが恩返しする番だと思った」
 島原半島で集めた支援物資と音楽機材を載せ、震災から3カ月後の6月下旬、須賀川市へ車を走らせた。壁に亀裂が入り、斜めに傾いたままの建物。震災の爪痕が生々しかった。同原発から西に50キロ以上離れた須賀川市にも、あちこちに真新しい放射線監視装置(モニタリングポスト)が設置されていた。
 ギターを手に10カ所の高齢者施設を回り、みんなで「ふるさと」を歌った。大震災後、自室に引きこもっていた女性が笑顔を見せ、「次はいつ来るの」と聞いてきたのがうれしかった。
 以来、毎年6月に須賀川市を訪れ、歌で人々を励ますことが恒例になった。「年に一度の帰省の感覚かな」。昨年はコロナで行けなかった分、“実家”に帰るのが、いつにも増して待ち遠しい。被爆地長崎から平和を祈るコンサートに携わってきた川田。長崎がそうだったように、福島も必ず復興できると信じている。
 長崎の被爆者らが2013年に立ち上げた市民団体「福島と長崎をむすぶ会」も、被災地に心を寄せ続けてきた。福島を訪ねて交流したり、長崎で被災地の現状を伝えたりしている。
 被爆者の体験を通し、同じ核の被害に遭った福島を励ます-。共同代表の川端翔(34)は、一連の活動の根底にある思いをこう話す。それは、被爆地だからこそ伝えられるメッセージだと考える。
 一方で、会の発起人だった被爆者らは近年、相次いで死去。被災地から高校生を招く活動も、この数年は金銭的な事情などでできていない。活動に携わる人の輪をどう広げていくか、課題は多い。それでも川端は力を込める。「発信の方法を工夫しながら、できることをしたい。地味な活動だとしても、続けることに意味がある」。息の長い支援に向けた思案が続く。

 


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