被爆者で初「平和への誓い」 述べた 辻幸江さん死去 運動の静かな先駆者

辻幸江さん(遺族提供)

 1970年8月9日の平和祈念式典で、被爆者代表として初めて「平和への誓い」を述べた辻幸江(ゆきえ)さん=長崎市滑石3丁目=が26日、脳梗塞のため95歳で亡くなった。長崎市出身。55年に「長崎原爆乙女の会」の代表として、第1回原水爆禁止世界大会で被爆の実相を訴えるなど草創期の被爆者運動の礎を築いた。晩年は表舞台にほとんど姿を見せず、静かに生涯を閉じた。
 「長崎原爆青年乙女の会」の原爆体験記などによると、辻さんは19歳の時、爆心地から1.2キロの三菱長崎製鋼所(茂里町)で被爆。建物の下敷きになり、顔や腕などにやけどを負った。救出されたが、2カ月間、目が全く見えなかった。
 その後、結婚して男児を出産したが、生後間もなく亡くなった。直後に離婚。自殺も考え、体験記では当時を「生き地獄にも似た毎日」と表現している。
 原爆で下半身不随になり車いすから核兵器廃絶を訴えた故・渡辺千恵子さんと出会い、55年に県内初の被爆者団体となる長崎原爆乙女の会を結成。渡辺さんを支え続け、演説の際には抱きかかえて共に演台に立ったこともあるという。

1957年ごろの辻さん(左)と渡辺さん=長崎市油屋町(長崎被災協提供)

 親交があった長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)副会長の横山照子さん(79)。生前の写真を見返すと、どれも後方に小さく写っているものばかりだったという。横山さんは辻さんを被爆者運動の源流をつくった「静かな先駆者」と評する。「自分から前に出ることも、苦しみを語ることも決してなかった。年上のお姉さん的な存在で、仲間を見守り支え続けてくれた」
 55年の第1回原水禁世界大会で、辻さんは涙ながらに被爆の惨状を訴えた。この時、被爆者の声が初めて日本中に広がり、各地に被爆者の受け皿ができるきっかけとなった。70年の平和祈念式典では「戦争をなくせ、核兵器を禁止せよ、被爆者に完全な援護をという声は被爆者の願いであり被爆国日本の信条でなければならない」と呼び掛けた。
 当時、長崎被災協が運営していた「被爆者の店」でも働き、60歳ごろに退職。その後、活動に携わることは少なくなったという。遺族によると、10年ほど前からは認知症が進行。今月20日夜に救急搬送され、26日午前3時12分、入院先の病院で息を引き取った。家族には被爆体験を積極的に話すことはなかった。おいの辻勝義さん(54)は「穏やかでいつもにこにこしていた印象しかない」と明かす。
 今年1月には核兵器禁止条約が発効。横山さんは「辻さんの訴えがあったから、条約に結び付いたと思っている。『核兵器を禁止する』ことだけは絶対に譲れない。それが先人たちの願いだ」と決意をにじませた。

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