島原で追悼式 災害の記憶、後世に 雲仙・普賢岳大火砕流30年

地蔵に手を合わせ、犠牲者を追悼する遺族ら=島原市、北上木場農業研修所跡

 消防団員や警察官、報道関係者ら43人が犠牲になった1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流から30年となった3日、地元の長崎県島原市は鎮魂の祈りに包まれた。市は犠牲者の追悼碑がある仁田団地第一公園(仁田町)で5年ぶりに追悼式を営み、時折激しい雨が降る中、遺族ら約150人が参列。市内の小中学校では追悼集会などが開かれた。大火砕流発生時刻の午後4時8分、市内に追悼のサイレンが鳴り響き、市民らが災害体験の継承と防災への誓いを新たにした。
 度重なる火砕流で甚大な被害を受けた安中地区の住民が集団移転した仁田団地の追悼碑前であった追悼式には、遺影などを手にした遺族56人も参列。当時、消防団員だった古川隆三郎市長は式辞で、93年6月の火砕流で犠牲になった住民1人を含む計44人を悼み「大自然の脅威を歴史から学び、火山が育んだ大地の恵みを大切にし、地域を活性化していくことで、災害で得た経験を後世につなげたい」と復興への決意を示した。
 中村法道知事は「最愛の肉親を亡くされた遺族の深い悲しみを思うと誠に痛恨の極み」と話した。
 献花に続き、消防団員だった夫、大町安男さん=当時(37)=を亡くした寿美さん(64)が遺族代表であいさつに立ち「あの日から長い月日がたち、遺族の世代も移り変わった。親から子、子から孫へ噴火災害の脅威を新しい世代へ伝え、火山と共存できる街づくりに貢献できるよう、頑張っていきたい」と述べた。
 追悼式は新型コロナウイルス感染防止のため、参列者を前回の半数程度に減らして実施した。平成町の消防殉職者慰霊碑前にも献花所が設けられ、消防団員らが早朝から花を手向けていた。
 市民は午後4時8分のサイレンで黙とう。消防団員の詰め所だった北上木場町の北上木場農業研修所跡では慰霊の鐘が鳴らされ、遺族らが「平成新山」に向かって静かに目を閉じた。当時、報道陣の撮影拠点だった「定点」周辺でも、遺族らが手を合わせる姿が見られた。
 自衛隊ヘリコプターによる遺族の上空からの慰霊は悪天候のため中止された。


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