「あの日、何が起きたのか」 消防団員の父を亡くした教諭・山下譲治さん 過去の体験語る  雲仙・普賢岳大火砕流30年 

大火砕流で父を亡くした山下さん。子どもたちに噴火災害を語り継ぐ決意を新たにしている=南島原市深江町、大野木場砂防みらい館

 「毎年、6月3日が近づいてくると、心臓の鼓動が激しくなります。遺族に節目なんてありませんよ」。長崎県島原市柿の木町の中学校教諭、山下譲治さん(43)は、1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流で、消防団員だった父、日出雄さん=当時(37)=を亡くした。「あの日、何が起きたのか。なぜ、(父は)死ななければならなかったのか」。島原の子どもたちに伝え続けている。
 日出雄さんは当時、同市南上木場町で農業を営みながら、消防団員として活動。背が高く、地元の草野球チームでは投手として活躍していた。譲治さんは、そんな父に憧れて野球を始め、将来の夢は親子で農業をすることだった。
 大火砕流当時は中学2年。自宅周辺は避難勧告が発令され、家族で市内のアパートに身を寄せていた。あの日、消防団員として警戒に当たっていた父が心配になり、自宅のアマチュア無線機から聞こえてくる市役所や消防団のやりとりに耳を傾けていた。
 父が周波数を合わせていたおかげで、現場の状況は詳しく把握できた。いつもと何か違う。「避難しろ!」。緊迫した雰囲気と父が負傷したことが分かった。窓から外を見ると、黒い巨大な噴煙が眉山に覆いかぶさり、サイレンが鳴り響く。周辺の道路では、スリップ事故や渋滞が発生し、トラックの荷台に乗せられた人影が見えた。父ではなかったが、怖くて泣きじゃくった。
 翌4日午後、県立島原温泉病院(当時)で父に会えた。気管切開で呼吸器が付けられ、全身を包帯で巻かれていた。「死ぬとかな…、死ぬかも。助かる感じがしない…」。その日の夜、父は死んだ。
 「うっとうしい、放っといてくれ」。この日を境に報道関係者がマイクやカメラを向けてくるようになった。危険な場所で取材を続けた報道陣、警戒に当たった消防団員ら。「この30年間、許せない気持ちがなかったわけではない。ただ、それ以上に父を亡くしたつらさ、悲しさが強かった」
 追悼行事には参列してこなかったが、10年前、母の睦江さん(65)の後押しもあり、遺族代表であいさつをした。年を重ねるにつれて心境も変化し、結婚して新しい家族にも恵まれた。徐々に過去と向き合えるようになり、母校の市立第三中などで自身の体験を語っている。
 「もともと強い人間ではないので多くは話せないが、教える立場に就いている以上、避けては通れない。この土地に住む上で知っておくべき噴火災害の知識や教訓を、若い世代につなげる役割を果たしたい」。それが亡き父の遺志を受け継ぐことだと考えるようになった。


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