頭から離れぬ「あの日」 遺族代表・大町寿美さん 子の成長が支えに 雲仙・普賢岳大火砕流から30年

市主催の追悼式で遺族代表としてあいさつする大町さん=島原市、仁田団地第一公園

 「振り返ってみればあっという間。一日一日を過ごしていくのがやっとだった」。当時、消防団員だった夫、大町安男さん=当時(37)=を大火砕流で亡くした寿美さん(64)=長崎県島原市大下町=は、これまでの日々を振り返る。癒えぬ悲しみを抱えながら、3人の息子たちのために前向きに、必死に生きてきた30年間。それでも「なぜ消防団員が犠牲にならなければならなかったのか」との思いは消えない。
 3日、島原市仁田町の仁田団地第一公園で営まれた追悼式。遺族代表としてあいさつに立った寿美さんは「突然帰らぬ人となったあの日のことが、頭から離れることはない」と喪失感を吐露した。当時の安男さんと同年代になった息子たちは結婚して独立。4人の孫の顔も見ることができた。式典前、「お父さんが『きょうの大役、頑張れよ』と言っている」と励まされたという。
 「消防団員だから、消防で死ねたら本望たい」「なんば言いよっと。残された人はどうすると」。噴火活動が激しくなってきた頃、ふと交わした夫婦の会話を思い出すたびに切なさが込み上げてくる。それが現実になるとは思いもしなかった。
 あの日も「気を付けてね。いってらっしゃい」と元気に送り出した。「行ってくるよ」。だが、次に安男さんと対面したのは病院。既に意識はなく、会話もできる状態ではなかった。
 パート勤務などをしながら、息子たちを育て上げた。長男は陸上自衛隊員、次男は福祉施設職員、三男は消防士。「長男は父親の年齢を越え、次男がちょうど主人と同じ年。そういうことが頭の中を駆け巡った。噴火災害がなかったら、こんな仕事に就いていただろうか。人を助けたい。そういう仕事に就きたい」という息子たちの選択を誇りに思う。
 当時、避難勧告区域内にあった撮影拠点「定点」で報道陣が取材を続け、消防団員たちは警戒のために同区域内に戻った。その定点周辺はこの春、「被災遺構」として整備された。
 寿美さんは追悼式終了後、報道陣の取材に声を詰まらせながら応じた。犠牲者全員を悼む気持ちは変わらないが「いつまでも悔やまれる。私は消防団員の妻。なぜ犠牲者がたくさん出たのか、真実を後世に伝えてほしい。私たちも後世に伝えていきます」と誓った。


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