大惨事から30年

 火口で〈溶岩塊(かい)の大規模な崩落が発生した〉と、長崎新聞の夕刊で大きく報じている。1991年5月24日朝、雲仙・普賢岳の火口で、せり上がった溶岩の塊が縁を越え、山の斜面を下った▲それは溶岩の破片、火山灰、ガスなどが混ざった〈小規模の火砕流〉だと分かった、と2日後の朝刊にある。おそらく火砕流という言葉が使われた、初めての記事だろう▲その少し前の5月15日、山の麓を流れる水無川で初めて土石流があり、住民に避難勧告が出された。5月20日には、火口にむくむくと溶岩ドームが現れた▲このように、91年5月半ばからの短い間に限っても「初めて」のことが引きも切らず起こっている。斜面を猛スピードで駆け下る火砕流も、初めて発生してから連日絶えることなく、先端はとうとう民家に迫っていた▲勢いを増し、危険度も増す中で6月3日、火砕流の上に「大」の字が付く惨事が起こった。なぜ43人も亡くなってしまったのか、命の重さにいま一度、思いを巡らす。「避難を」という警告の重さをいま一度、胸に刻む。30年たち、大惨事が残したものはいっそう重い▲それから数日後、山の麓に立ち入りできない区域が設けられ、人々は住まいや農地を失い、長い避難生活に入った。災害が長期化した境目としても6.3は忘れられない。(徹)

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