【プロレス蔵出し写真館】北尾光司の「八百長」発言はナゼ飛び出したか ジャイアント馬場の貴重な“考察”

目つぶしポーズで対峙する北尾(左)とテンタ(90年4月1日、神戸ワールド記念ホール)

多くの期待をかけられ、新人としては異例の東京ドーム(新日本プロレス、1990年2月10日)でデビューしたのは〝サンダーストーム〟北尾光司だ。

デーモン小暮(現・デーモン閣下)が作曲したテーマ曲にのり、革ジャンにサングラス姿で入場。トップロープを飛び越えてリングインし、対戦相手の〝入れ墨獣〟クラッシャー・バンバン・ビガロを指さし挑発。名前をコールされるとハルク・ホーガンばりにタンクトップを引き裂き、フィニッシュもホーガンを真似た(?)ギロチンドロップ。

この中身が伴う前に〝格好〟から入った北尾に、観客は失笑しブーイングを浴びせた。新日本プロレスでは10数試合行ったが、残念ながらファンの支持を得られることはなかった。

それでも、テレビ朝日で同14日に放送された特番「水曜スーパーテレビ」は平均視聴率20・2%を記録。瞬間最高視聴率は25・3%(いずれもビデオ・リサーチ調べ)と、プロレス番組として20%越えは7年ぶりの快挙だった。

しかし、7月23日、青森・八戸グランドホテルの駐車場で、青森・十和田大会の出場をめぐり現場責任者の長州力との大ゲンカが勃発する。

椎間板ヘルニアの状態もあり欠場を希望した北尾に対し、長州は「試合に出ろ」と対立。北尾の胸ぐらをつかむと、北尾も上着を脱ぎ始め、あわや殴り合い寸前までエスカレートした。お互いに暴言を吐き、北尾は八戸市内の別のホテルに移動した。本紙の直撃に「ストリートファイトでもOKだ」と長州を過激に挑発した。

結局、約2か月後に、北尾の所属先「アームズ」と坂口征二社長の会談で新日本とは円満に契約を解除した。

長州とは人を介して和解したようだが、長州の「他の団体が手を差しのべても、100%、同じことを起こすだろう」という予見が、後に的中する。

北尾は天龍源一郎を頼り、11月1日にSWSに入団。10日に、若手中心の登龍門マッチ(道場マッチ)で、大矢健一(後の剛功)を破り初陣を飾ると、22日に静岡・浜松アリーナで行われた道場対抗のタッグトーナメントで天龍とのコンビで見事優勝を果たした。

しかし、翌91年〝アースクエイク〟ジョン・テンタとの2連戦で前代未聞の事件が発生する。初戦の東京ドーム(3月30日)はテンタが先勝。4月1日に行われた神戸大会は序盤からかみ合わず、手四つでは組むものの、ロックアップさえしない両雄。北尾を背後から胴締めして強引に後ろに投げ、バックを取るテンタに北尾は明らかに不機嫌な表情になり、場外にエスケープ。そして本部席の机を持ち上げるとリングに向かって放り投げた。

リングに戻りテンタと対峙した北尾は、なんと2本の指をテンタの顔に向け目つぶしポーズ。するとテンタも同じポーズで対抗し(写真)、一度、北尾が仕掛けるとテンタは激高。この状態のまま時間だけが過ぎていく。そうこうしていると、北尾は間に入った海野宏之レフェリーに蹴りを見舞い反則負けの裁定が下った。

リングに降りた北尾はマイクで「八百長野郎! この野郎! 八百長ばっかりやりやがって。八百長!」とまさかの八百長の連呼。レスラーからの八百長発言に観客、関係者も騒然となった。

宿舎での北尾は、新日本で長州ともめた時には、長州への怒りがいつまでも収まらなかったが、このテンタ戦では冷静さを取り戻し反省しているようだった。しかし、当然SWSは解雇された。

この試合の数日後、地方巡業でジャイアント馬場を取材すると「レスラーは連敗というのは嫌なものなんだ。プライドもあるしな…」北尾に一定の理解を示していた。

時は経ち、北尾は95年5月3日に福岡ドームでアントニオ猪木と組み長州、天龍組と対戦。長州にローキックを見舞って圧倒し、アルティメットスタイルの馬乗り殴り合いを展開した。長州は「北尾はデカいし、いいものを持っている。最初で最後かとも思ったが、次は奴次第だ」と語った。5年越しの遺恨、怨念は氷解したようだった。ちなみに、テンタとはWARのリングで対戦しフォール勝ちしている(敬称略)。

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