【昭和~平成 スター列伝】若大将・原辰徳が引退当日まで口にしていた“巨人への感謝”

【写真上】9月20日に続き、26日もお立ち台で涙を見せた原【写真下】95年10月9日、原は球団事務所で引退を報告した

1995年9月30日、巨人は敵地・神宮でヤクルトに敗れ、目の前で野村克也監督の胴上げを許した。一夜明けた10月1日、神宮室内練習場の脇で、原辰徳が現役引退を表明。「もう悔しさや無念さは乗り越えた」と話した。

原は前年(94年)2月、もともと痛めていた左アキレス腱を部分断裂。5月に復帰したものの、出場は67試合にとどまった。チームは94年に落合博満、95年に広沢克己、ジャック・ハウエルと大物選手を次々に獲得。ポジションがかぶる原はそのシワ寄せをもろに食らい、引退がささやかれるようになる。

一方、その間に感じ続けた「悔しさや無念さ」は簡単に払拭できるものではなく、本人が「まだ終われない」と他球団での現役続行をにおわせたこともあった。

そんな中、迎えた9月20日の中日戦(東京ドーム)で通算380号となる4号ソロを放ち、久しぶりにお立ち台に。「たまに出てもこれだけのお客さんがね、声援を送ってくれて…」と感極まり涙ぐんだ姿を見て、一部スポーツ紙は「原引退」と報じた。同26日の横浜戦(東京ドーム)で5号ソロを放った際にも、お立ち台で言葉を詰まらせる。

引退濃厚といった空気が漂う中、本紙は原を直撃。出場機会が減ったことについて「正直言って最初のうちはベンチにいるのがつらかったよ。でもある時を境にスーッと気持ちが楽になったんだ」と打ち明けた。「引退を決意したからか?」と問うと「いや、違う。ドラフトでオレを引き当ててくれて、ここまで育ててくれた巨人への感謝だな。いろいろ思う部分もあったけど、素直にそういう気持ちになれたら、気分がものすごく楽になったんだ」と明かした。

さらに「とにかく巨人には感謝の気持ちでいっぱいなんだ。だからその巨人に後ろ足で砂をかけるようなマネは絶対にしたくないし、してはいけないんだ。口に出したらいけないということもある、ということだ」と続けた。中日、ヤクルト、横浜、オリックスなどが「原はまだやれる」と見ており、本人次第で移籍もあり得る状況だったが「すべて終わってからだよ。終わったら考える」と言葉を濁した。

「終わったら」というのは、優勝チームが決まったらということだったのだろう。冒頭に記したように野村監督の胴上げ翌日に引退を表明。その日の夜、改めて自宅で本音に迫った。

原ほどの生え抜きスター選手が敵地で、しかも“立ち話”で引退を公表するのは異例だが「そうかなぁ、敵地とか何とかじゃなくて、引退を決めた以上は早くファンに知らせたかった」。決断の時期については「きれい事じゃなくて、本当に昨日(9月30日)なんだ。ヤクルトの優勝が決まった時だね」と明言した。

引退の理由としてアキレス腱の状態を挙げ、他球団でのプレーについては「本気だったね」とポツリ。「まだまだやれる、このままでは終われない、と思っていたから…。でも結局は肉体の問題だから」と複雑な思いを口にした。

10月8日、シーズン最終戦となった広島戦(東京ドーム)を最後にバットを置いた原は「今後、どういう形になるか分からないが、夢を持ち続けていきたい」と決意表明。現役最後の年に、我を通さずチームを最優先に考えて行動したことは夢=巨人監督としての成功につながっていく。 (敬称略)

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