土呂久鉱害 歴史触れる 上野中生、現地を見学

大切坑の内部を見学する上野中3年生

 高千穂町・上野中(岡田能直校長、29人)の3年生は、かつてヒ素鉱害のあった同町岩戸の土呂久地区を教材に環境学習に取り組んでいる。7日には、生徒13人が丸一日かけ現地を見学。町内の中学校が土呂久に足を運んで鉱害の歴史を深掘りするのは初めてで、学校教育への導入が町内で広がることが期待される。
 江戸時代初期に銀山として開発された土呂久鉱山では、1920(大正9)年から62(昭和37)年の閉山まで、亜ヒ酸を製造。多くの住民がヒ素中毒とみられる症状で亡くなった。
 事前に土呂久ヒ素鉱害について学んできた生徒たちは、訪れた土呂久公民館で住民の講話に耳を傾けた。登壇者の一人、佐藤洋(ひろし)さん(78)は「子どもの頃、朝起きると霧のように亜ヒ焼きの煙が流れてきて、酸っぱい臭いがした。窯に残る白い粉をなめて亡くなった女の子もいた」と声を落とした。生徒らはメモを取りながら聞き入り、「なぜ被害が大きくなるまで亜ヒ酸製造が続いたのか」「草木が一本もなくなった山を、どうやって緑豊かな森に戻したのか」などと熱心に質問していた。
 昨年3月にようやく水質改善工事が完了した主要坑道「大切坑(おおぎりこう)」では、町建設課職員から環境復元事業について説明を受けた。坑口から535メートル奥の地点まで内部を見学し、飯干玄起(げんき)さん(14)は「土呂久のことは全く知らなかったが、身近で貴重な体験ができ関心が湧いた」と話した。生徒らは、若手和牛農家を訪ね、地域を支える産業についても学習。土呂久の持続可能な地域づくりについて、社会科の授業でさらに理解を深めていくという。
 現地見学に同行した、土呂久の記録作家として活動する川原一之さん(74)=宮崎市=は「地元の小中学生が地域の歴史や土呂久鉱害の事実を学ぶことは、鉱害を繰り返さないためにも意義がある。貴重な教材を、地元の学校教育に広く取り入れてほしい」と話している。

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