【山崎慎太郎コラム】エース阿波野さんは仰木監督の絶対的信頼を得ていた

絶対的エースとして仰木監督(左)の信頼を得ていた阿波野

【無心の内角攻戦(12)】近鉄のエースといえば阿波野秀幸さんでした。最初は背も大きくないし、細い人やなあっという印象でした。近鉄の選手ってごついイメージあったですから。練習ではバネがあってよそ見しながらぴょんぴょん跳ぶように走る。でもブルペンに入ったらボールのキレがすごくて素晴らしい。

僕が3年目の1987年の最後に一軍でちょこっと投げたんですけど、それまではグラウンドで阿波野さんを間近に見ることはなかったですよ。同じ寮生だったんで、女性ファンがキャーキャーうるさかった。「うるさいんじゃー!」って言ってた選手もいましたよ。藤井寺球場の裏側にあったんでデーゲームの後とかはファンがすごかったですよ。

性格的にはA型できちょうめん、部屋もきれいにしてたと思います。ああ見えてやんちゃですし、横浜出身でもすぐに近鉄のカラーになじんでいました。2個下の僕もよくかわいがってもらいましたよ。気さくで壁がなくて一緒に宮崎キャンプでは日向の街で遊んでいました。お酒も好きで、阿波野さんは一軒では終わらないからいたる場所に出没する(笑い)。どこに行っても会うので「あれ? ここにも阿波野さんがおる」みたいなね(笑い)。ちょうど選手の入れ替わりでベテランの人たちが減っていって、年代が近い選手が多く、みんな仲がよかった。阿波野さんはいつも入来智をいじって遊んでいました。

阿波野さんは1年目の87年からローテに入って15勝を挙げて新人王。小野和義さんと2人を中心に回し、僕らがついていく形ですね。自分がエースで貯金を抱えないといけないんだ、という自覚があったと思います。僕みたいに勝ったり負けたりではなく、勝たないといけない、最後まで投げるぞっていう気持ちがあった。仰木彬監督の阿波野さんへの信頼はすごかったし、投げる時はブルペン陣はお休みだよ、みたいな。監督が阿波野さんを怒っているのを見たことないですね。僕らみたいに怒られるようなことをしていないし、怒っちゃいけない繊細なタイプだったこともあるでしょう。怒っていいタイプとそうでないタイプを分かっておられましたよね。

僕はその年の終盤にプロ初勝利を挙げましたが、チームは最下位。翌88年に「10・19」の悔しさを経験し、89年に悲願のリーグ優勝を達成しました。そしてその年のオフのドラフトで、新日鉄堺で注目されていた野茂英雄が8球団競合の末、仰木監督がクジを引き当てました。エースだった阿波野さんも故障とかが出始めてちょっと…という時期に入ってきたと思います。

野茂がすごいすごいと言ったって実際に見てみないとわからないでしょ。で、キャンプで最初に見た時は「あ、これは俺、無理だ」と思った(笑い)。体のゴツさもそうだけど、モノが違うと…。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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