〝日本人初〟W杯出場は幻に…V川崎・石川康「だから日本代表になりたくないって…」

黄金期のV川崎で活躍した石川

【多事蹴論(11)】日本人初“幻”のW杯メンバーとは――。1993年にプロサッカーのJリーグが発足し、94年米国W杯で初出場が期待された日本代表は“ドーハの悲劇”として語り継がれているように、同アジア最終予選で敗退し、悲願を果たせなかったが、同大会に出場していたかもしれない日本人がいた。それが元日本代表DF石川康だ。

沖縄からボリビアに移住した日本人の両親のもとに生まれた石川は幼少期からサッカーに取り組み、名門アカデミア・タウイチ・アギレラにも所属。チーム自体が世代別のボリビア代表となり、85、87年の世界ジュニアユース選手権に出場した実績がある。この大会での活躍をキッカケに高校サッカーの名門・武南高(埼玉)に留学。卒業後は本田技研(現JFLホンダFC)を経て92年からV川崎(現J2東京V)でプレーした。

石川は92年バルセロナ五輪を目指すU―23日本代表にも選出。同アジア予選ではリベロを務め、黄金期を迎えたV川崎では不動の右サイドバックとして活躍した。そんな中、94年5月、44年ぶりとなる米国W杯出場を決めたボリビア代表からW杯メンバー入りの要請が届いた。当時の代表メンバーはエースFWマルコ・エチュベリをはじめ、石川がタウイチでともにプレーした選手が中心メンバー。中でもエチュベリと親交が深かったことが候補入りの大きな理由とみられていた。

石川は本紙記者に「W杯に行けるかもしれない。だってW杯だよ。そりゃ行きたいでしょう」とうれしそうに語っていた。この時点で日本代表はW杯に出ておらず、正式に同国メンバー入りとなれば“日本人初”の快挙だった。しかし懸念もあった。石川はすでに国際Cマッチ(クラブチームとの対戦)ながら日本代表として1試合に出場していたからだ。

そこで日本サッカー協会に問い合わせると、国際サッカー連盟(FIFA)の規定では、国際CマッチながらもA代表としてプレーした実績が引っかかる可能性があると指摘。その当時のルールでは解釈が微妙な部分があったものの、改めてボリビア代表に選出されると、FIFAから出場停止などを科されるケースもあるとの見解だった。

石川は当時「だから日本代表になりたくないって言ったのに…。W杯に出られるチャンスなんて一生に一度あるかどうかだから。本当に日本代表を断ればよかった…」と嘆くばかり。結局、ボリビア代表として日本人初のW杯メンバーは幻に終わった。その後も何度かボリビア代表入りが浮上したが、石川は前出の理由などから招集を断ったという。

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