【山崎慎太郎コラム】「絶対上げるから」と達川監督は言ってくれたけど…

広島・達川監督からねぎらいの言葉をもらった

【無心の内角攻戦(25)】1999年はダイエーが優勝。チームって選手と首脳陣の意思の疎通がないと強くならないと思うし、なんでこいつを勝たせないかんねんってなると一つにならない。「この人のために」という思いが自分のためになる。僕も近鉄時代に経験しましたからね。王貞治監督への信頼関係ができてきたと思うし、メンバー的に常勝軍団になると思っていました。

僕は優勝の翌日に球団に戦力外を言い渡され、FAでせっかく獲ってもらったのにまったく役に立たなくて、申し訳なさしかなかった。成績を残すつもりで来たし、できないなんて思ってもいない。胆石になるなんて想像もしてないです。40日間入院していたので退院しても体力が戻らない。でも「まだできる」と思っていました。

日本シリーズのころ、僕は近鉄の同僚だった広島の清川栄治コーチに声をかけられ、テストを受けることになりました。由宇の秋季練習に参加させてもらうと、コーチや選手に清川さんが「こいつはめちゃいいやつだ」みたいにすごく動いてくれる(笑い)。ブランクはあってもシート打撃とか、達川光男監督の前で今の自分ができることをしっかりやれました。後日、合格の返事をもらってありがたかった。いくら自分がまだできるって思っても獲ってくれるところがないとどうすることもできないですから。

カープは練習がきついと言うじゃないですか。キャンプ初日をやった時に「これ俺、もつかな」と思った(笑い)。それが翌日からアップがやさしくなったんです。投手コーチの清川さんと川端順さんが「こいつを無理させたらアカン」とすごく気を使ってくれたんですよ(笑い)。それがなかったら早く故障していたかもしれない。2人が親身に考えてくれたんで感謝しかないですし、特に清川さんにはテストの時からよくしてくれて頭が上がらない。もう広島に来た時点でぶっ壊れてもいい、開き直って自分を出すだけだと思っていました。

達川さんって、僕は失礼ながら試合中にコンタクトを捜す映像とかの印象しかなかったんです。怒ったりするイメージはないんですけど、若い選手と笑顔で話してるなと思っていたら、気がついたら怒りモードに入っている。感情の起伏が激しいところもあったのかな。僕には気を使ってくれていたと思います。夏前に二軍落ちした時「また絶対上げるから」と声をかけてくれた。それで、球宴休み中、たまたまプールで会ったんですよ。達川さんは家族で来られていて僕に「慎太郎、悪いな。なかなか球団の意向もあって上げることができないんや」「ああ、そうなんですか」って(笑い)。プールサイドで事情を聞きました。

その年は25試合で2勝2敗6セーブ。退団するとき「ありがとうな。よく助けてもらったな」と言ってくれた。今もどこで会ってもすごいやさしく接してもらっています。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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