【プロレス蔵出し写真館】ダイナマイト・キッド 選手生命を顧みない“破天荒ファイト”の源泉

机に寝かせた菊地にダイビングヘッドを見舞うキッド(91年3月、新潟・長岡)

〝爆弾小僧〟ダイナマイト・キッドは、昭和から平成にかけてマット界を代表するレスラーの一人だった。迫力ある攻めとダイナミックな受け身、そしてなんと言ってもその無鉄砲なファイトぶりが特徴だ。

写真は今から30年前の91年(平成3年)3月29日、全日本プロレスの新潟・長岡市厚生会館で行われた前座・第5試合のタッグマッチ。

キッドはジョニー・スミスと組み、川田利明&菊地毅組と対戦。菊地と場外乱闘になったキッドは、軸足を取らせ後頭部にハイキック。ダウンした菊地をテレビ放送席の机に寝かせると、横並びのもう一方の机に飛び乗り菊地のボディーにダイビングヘッドバットを敢行。くの字に折れた机で悶絶する菊地を蹴りまくったあげく、イスで殴打。

まさにハチャメチャな攻撃だが、キッドは決して地方でも手を抜かずファイトぶりは変わらなかった。

キッドはこの年、一度引退している。12月6日「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦で突然、引退が発表され、試合後のセレモニーで全日本の選手たちから胴上げで送られた。

「首に3本のボルトが入っている。今度負傷したら人生もおしまい。だましだましのファイトはしたくない」と語り、「ダイナマイト・キッドはジ・エンド」と名セリフを吐いてリングを去った。

85年にWWF(現WWE)入りしたキッドは、86年12月に試合中に重傷を負って病院に緊急搬送された。その後、早期復帰を果たしたが、このケガが選手生命を縮めたとも言われた。

さて、キッドといえば初代タイガーマスクのデビュー戦(81年4月23日、蔵前国技館)の相手として知られ、キッドの迫力ある攻めと佐山タイガーの素早いムーブの相乗効果が、タイガーマスク人気に火をつけたと言っても過言ではない。佐山本人もライバルと認めるキッドとの抗争は、タイガーマスクが引退するまで数々の名勝負、好勝負を生み出しタイガーマスクにシングルで唯一の黒星をつけたのもキッドだった。

新日本を主戦場に活躍していたキッドは、84年11月13日、MS・Gタッグリーグ戦にデイビーボーイ・スミスとのコンビで出場が決まっていたのだが、来日すると成田空港で全日本への参加を表明した。翌14日に仕掛け人のミスター・ヒトとともに会見した2人は、正式に全日本への電撃移籍を発表し、暮れの祭典「世界最強タッグ決定リーグ戦」に出場した。

公式戦が行われた11月23日の後楽園大会では、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスと初対決し、破天荒な連携技を初公開した。スミスがドリーを担ぎ上げ、キッドはドリーの上に飛び乗りダウンしているテリーに向かい得意のダイビングヘッドバットを狙った。テリーは仰天の表情でこれを避け、この時は未遂に終わった。当時、このような無茶なことをするレスラーはキッドぐらいだったろう。

93年に復帰したキッドは、96年10月10日、みちのくプロレスの両国国技館で小林邦昭、ドス・カラスとタッグを組み、ザ・グレート・サスケ、ミル・マスカラス、そしてライバルの初代タイガーマスク組と対戦した。この試合が日本でのラストマッチとなったが、全盛時とは比べものにならないほど、痩せ細った姿がファン、関係者を驚かせた。

ところで、キッドはファンやマスコミの前では決して笑顔を見せたことはなかった。86年10月19日、WWFでブリティッシュ・ブルドッグとして活躍していたころ、米ロサンゼルス・スポーツアリーナにブルドッグを連れて入場の際、少しはにかんだような笑顔を見せた。

ベビーフェイスの扱いだったからなのか…。キッドの笑顔を見たのはこれが初めてかもしれない(敬称略)。

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