17年に最優秀中継ぎ投手 阪神・桑原謙太朗を延命させた恩師の熱血指導

引退会見に臨んだ桑原(右)とサプライズで花束贈呈に現れた阪神・岩崎-(東スポWeb)

【楊枝秀基のワッショイ!スポーツ見聞録】あの年の9月、恩師の指導がなければ…。仲間に見守られての引退会見もなかったかもしれない。

20日に西宮市内の球団事務所で阪神・桑原謙太朗投手(35)の引退会見が行われた。花束贈呈には同僚の岩崎がサプライズで演出。遅咲きのセットアッパーをねぎらった。

桑原は2007年の大学生・社会人ドラフト3巡目で横浜(現DeNA)に入団。10年11月にオリックス、14年11月に阪神へと渡り歩いた。そして阪神移籍後3年目の17年にブレーク。プロ入り10年目、31歳になる年だった。

自己最多の67試合で4勝2敗39ホールド、防御率1・51。43ホールドポイントで同僚のマテオと最優秀中継ぎ投手を分け合った。金本阪神2位の原動力だった。

打者の手元で鋭く曲がる「真っスラ」が特徴。これが最大の武器だ。だが、それまでのプロ9年は制球難に苦しみ頭角を現せずにいた。

あの年の9月とは16年のことだ。金本阪神1年目の桑原は一軍登板ゼロ。実は夏場には右ヒジの痛みを訴えており、球団の戦力外リストに名前も挙がっていたという。

この当時、久保康生二軍投手コーチ(現大和高田クラブアドバイザー)は、桑原の選手としての延命のため動いた。

ウエスタン戦の登板、全力投球の1か月禁止。そして、肩ヒジの負担を減らした上でショートピッチ(捕手をホームプレートの前に座らせ14~15メートルの距離で投球練習)を反復させた。

ノルマは30球連続ストライク。ボール球なら1からやり直し。成功するまでに100球を要することもあった。

この練習が功を奏した。肩ヒジに負担のないフォームで患部を休ませた結果、球速が戻った。さらに、制球力も備わった。9月終盤には見違える姿の桑原がいた。
「あのときは頑張ったね。このままつぶれてしまってはいけないと思ったんでしょう。(休むと決めた)判断と(何とか変わろうという)努力がマッチングした。翌年の大活躍につながるターニングポイントでしたね」(久保氏)

桑原の成績は17、18年が突出している。その光り輝いた日々の礎となった時間。あの秋の記憶は右腕にずっと残り続けるだろう。

☆ようじ・ひでき 1973年生まれ。神戸市出身。関西学院大卒。98年から「デイリースポーツ」で巨人、ヤクルト、西武、近鉄、阪神、オリックスと番記者を歴任。2013年からフリー。著書は「阪神タイガースのすべらない話」(フォレスト出版)。21年4月にユーチューブ「楊枝秀基のYO―チャンネル!」を開設。

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