【仲田幸司コラム】仕事も家族も失い「マイク死亡説」も流れた

兄弟選手として話題となった嶋田宗彦(左)と嶋田章弘(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(36)】合格内定をいただいていたはずの阪神の入団テストに、まさかの不合格。いずれ必ず来る道なのですが、予期せずユニホームを脱ぐ時が来ました。

あくまで僕はロッテをクビになり、お世話になった阪神にもう一度見てくださいとお願いに来た立場です。覚悟はしていました。1983年のドラフトで球団から「来てください」と言われた時と立場は違います。

家族に報告する時には気持ちを切り替えていました。その後の活動のためプロダクションと契約し、毎日放送(TBS系)の解説者として活動を開始しました。

野球ができなくなり1年目の解説の時はグラウンドに行くのがつらかったです。なぜ、自分がここにいないんだという感情です。

ついこの前まで自分がユニホームを着て野球していたのに、ジャケット姿でグラウンドに下りている。気持ちよく引退していたら違ったんですが、心残りがあったと思います。

グラウンドから放送席に上がると、同じ甲子園でもまったく景色が違いました。こんなに素晴らしい中で自分は投げていたんだと感動しました。

きれいに整備された内野の土の色、外野の芝の色、ナイターのカクテル光線に照らされたグラウンドの輝きに圧倒されました。

マウンドやダッグアウトとは視点も違えば、聞こえてくる音も違いました。乾いた打球音、剛速球がミットを鳴らす音。これがファンの気持ちを引きつけるのかと再認識しました。

最高に幸せだった。一生、心に残る宝物。もう二度とできない経験です。

楽しい思い出もよみがえります。先輩捕手の木戸さんのサインに首を振り、打たれて怒られたこともありました。

正捕手を目指し、絶好調だった嶋田宗彦さん(現スコアラー)には、サイン間違いで投球を直撃させてしまい肋骨を骨折させてしまいました。「マイク、俺の野球人生を返せ…」と言われますが、かわいがってもらいました。

今、二軍監督の平田さんには、遠征先のホテルで真夜中に部屋に呼びつけられ、マッサージさせられたこともありました。酔っ払ってイビキをかいているのに、手を止めると「まだ起きてるぞ、続けろ!」と明け方までです。それも先発を控えた深夜ですよ。

で、試合で打たれると「マイク、俺が悪かったんか? 影響あったか? 握力とか大丈夫やったか?」と心配してくれてね。むちゃくちゃですけど、今となっては優しい先輩たちとの大事な思い出です。

プロ野球選手から解説者になった。その事実だけを見れば恵まれた人生に感じるかもしれません。

98年からスタートした評論家生活でしたが、所属事務所と放送局の関係が悪化するなど、いろんなチグハグがありました。

2006年ごろには放送局との契約も終了し、仕事も激減しました。同じ時期に離婚も経験し、途方に暮れる日々も経験しました。

家族を失った寂しさで、あのころは食事も喉を通らなかったですね。ヤケになって、お酒に逃げる自分もいました。

翌日に残る悪いお酒です。来る日も来る日も。そうするとどんどん痩せていくわけです。

当時「マイク死亡説」や「がんで入院説」も球界に流れたそうです。

直接会えた仲間には「俺はピンピンしてるよ」と話してましたが、公私ともにうまくいかず疲弊していました。

弟が大阪に住んでいたので、居候をさせてもらった時期もありました。

仕事も家族も失い、一歩間違えば逝っていたかもしれない状況でした。

でも、そんな僕に手を差し伸べてくれた人もいたのです。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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