23年ぶりの春 長崎日大センバツ出場<上> 『栄光』 長崎県勢で平成最多の甲子園出場 「練習よりも試合が楽」

1993年、春に続いて夏も甲子園に初出場した長崎日大。県大会決勝後に喜ぶ的野(右)や渡瀬(右から2人目)、選手たち=長崎市営大橋球場

 選抜高校野球大会(3月18日開幕)の出場32校が28日に発表され、九州代表として長崎日大が23年ぶり3度目の春の甲子園切符を手にした。平成の時代、県勢最多となる春夏計11度の甲子園出場を誇りながら、春は1999年、夏も2010年を最後に聖地から遠ざかっていた伝統校。その栄光の歴史を振り返り、OBでもある指導者とともに再浮上してきたチームの姿を追った。

 ■初出場8強入り
 1967年の開校とともに創設された野球部。74年に夏の前哨戦であるNHK杯で初めて県の頂点に立ったが、甲子園には一歩届かず、以降、80年代までは主要県大会のタイトルがない。部員数ぎりぎりの時期もあり、存在感を強めたのは90年代に入ってからだった。
 その初め、現在と同様に他の運動部活動も盛んだった学校は約3年間、よりスポーツに力を入れて生徒を集めた時期があった。野球部は91年秋の県大会を制すると、のちにプロ入りする貝塚政秀らを擁して92年春も県の頂点に立って九州大会準優勝。本命と評された夏の県大会は準々決勝で惜敗したが、代替わりしたチームが転機を迎える。
 選手や指導者として海星を全国区にした的野和男が監督に就任。直後の秋の九州大会で、エース中村隼人を中心に準優勝して93年春の選抜に初出場すると、いきなり8強入りした。甲子園から戻った4月には40人超の1年生が入部。そこからは歴代の選手が「毎日が的野先生との戦い。正直、練習よりも試合の方が楽だった」と口をそろえるほど、鍛えられた。

 ■全国レベル追求
 当時、新任の部長だった渡瀬尚(現長崎総合科学大付部長)は的野からの最初の指示を覚えている。「人数が多すぎる。半分にしてくれ」。戸惑い、葛藤しながらも、野球をしにきた選手たちを、隣のサッカー場で延々と走らせた。反発やボイコットもあった。選手も必死に戦いながら、春に続いて夏の甲子園にも初出場。学校は沸いた。
 「“おまえら、あのときが人生のピークやったな”と他の部活だった仲間から今でも言われる。それくらいめちゃくちゃ盛り上がった」。当時のレギュラーで現OB会副会長の川下友久はそう振り返り、選手寮も運営する兄貴分だった渡瀬は「甲子園は子どもたちが大人に見えて、大人が子どもに戻れる場所」とその価値を強調する。
 98~2000年は夏の県3連覇を含めて春夏計4度も甲子園出場。黄金期だった。各地の名将やチーム同士で勉強会を重ね、的野は練習で他県の強豪の数値を引き合いに「常に全国レベルの野球をしなさい」と追求。00年春の九州大会を戦った選手は「優勝しなかったら退部届を出しなさい」と言われた。必死に準優勝したが、的野が満足することはなかった。

 ■練習で悔しがれ
 相手の視線や細かな動きを逃さずに出すサインや奇襲など、試合中の的野の戦術、勝負勘を語る関係者の話も枚挙にいとまがない。打撃練習でバットを内側から出す動きを染み込ませる際には、マシンを前に打席ではなくホームベースに選手を立たせることもあった。まず自らが実践して「できるだろう」と示した。
 現在80歳になる的野は言う。「プレッシャーを与え、精神的スタミナをつけるという点は自信があった。練習で悔しがらない選手は嫌いだった。“まあまあ”というプレーは練習にない。それは甲子園に行って初めて言えることだったから」
(敬称略)


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