母の体験、紙芝居で伝える 山下豊子さん(65)=諫早市長田町= 久留米空襲と救護被爆 思い込めて 戦争の記憶 2022ナガサキ

母の遺影を見せながら紙芝居に込めた思いを語る山下さん=諫早市内の自宅

 昨年夏、長崎県諫早市西里町の市立長田小体育館。並んで座る子どもらの真剣なまなざしが手描きの紙芝居に注がれていた。描かれているのは、語り手である同市長田町の山下豊子さん(65)の母、西平八千代さん=2014年に86歳で死去=の久留米空襲と救護被爆の体験だ。
 1945年8月、16歳だった八千代さんは挺身(ていしん)隊員として軍需工場となっていた福岡県久留米市のゴム工場で働いていた。同じ長田町出身の女子生徒も5人ほどいた。終戦直前の同11日、空が真っ黒に覆い隠されるほど多くの米軍機が飛来し、工場や町は火の海に。爆弾の音が響き渡る中、腰が抜けて動けなくなった人を「逃げんば!」と立たせようとした時、艦載機が低空飛行で目の前に迫ってきた。「自分も撃たれるかもしれない」。極限の恐怖の中、逃げる男性を機銃で狙い撃ちする操縦士が笑っているように見えた。
 工場が焼けて帰宅指示が出たため、汽車に乗ろうと駅を目指した。空襲でけがをした人たちが助けを求めてきたが、できることはなく「ごめんなさい」と謝りながら歩くしかなかった。
 夜通し歩いて肥前山口駅から翌朝、始発に乗った。昼ごろ諫早市長田町の自宅に帰ると、近くの国民学校は長崎市内で原爆に遭った人の救護所になっていた。想像を絶する光景。リヤカーに乗せられた性別不明の遺体にはハエが群がっていた。まだ息がある人も「もう助からないから」と焼き場に運ばれていった。人間の腐った臭いが教室や廊下に充満。焼けただれた体に塗る薬もなく、傷口からは丸々と太ったウジが湧き上がっていた。救護活動に従事し、自分と同年代ぐらいの女子生徒の顔を拭くと、涙を流して「ありがとう」と言ってくれた。
 八千代さんは亡くなるまで約30年間、次女の豊子さん家族と暮らした。親子3世代、川の字で就寝。八千代さんは夜ごとうなされ、豊子さんは気になっていた。悪夢の正体は16歳の時に体験した戦争の記憶。米軍機が夢の中まで機銃で追いかけてきていたのだ。「私たちは、おもちゃにしか過ぎないのか」。操縦士の冷酷な笑顔を忘れることができなかった。
 豊子さんは「母から話を聞けるうちに、ちゃんと聞いておかなければ」と思い、十数年かけて丁寧に母の記憶を聞き取っていった。曖昧な部分はその都度思い出してもらった。
 戦争体験を聞いた被爆2世として、次世代のためにできることはないか。母に頼まれた豊子さんは2012年、「長崎被災協・被爆2世の会・諫早」の会員となり、原爆継承コンサートや学校での平和学習で体験者の手記を朗読するなど継承活動に取り組み始めた。
 17年に初めて長田小の平和学習会で「母、八千代の記憶」としてまとめた母の体験談を朗読。「絵に描けば伝わりやすいのでは」という会員の意見から、絵筆を握り、母から話を聞いた時に頭に浮かんだ情景を描いた。「子どもの遺体をそのまま焼くのは忍びなかった」という場面は、特に思いがこもった。体験していないことを絵でどこまで伝えられるか。表現する難しさに直面し、飛行機など知識がない部分の絵は会員の手を借りた。16枚約10分の作品に仕上がり、切に平和を願っていた母の気持ちを次世代へつないでいる。
 紙芝居を見た小学4年の女子児童が「私も10年後、先生になって、戦争中に何があったのかを次の世代に伝えていきたい」と感想文を書いてくれた。大切なことは確かに伝わっているという実感が、豊子さんら会員のやりがいと希望につながっている。
 「何の罪もない人々が簡単に殺される。それが戦争。あんたたちは絶対に反対せんばよ。今度あったら日本はなかごとなっとやけんね」。母がよく言っていたこの言葉を伝えるたびに豊子さんの心に熱い感情が押し寄せる。
 「もし家族が戦争で同じ境遇になったら? 子どもたちを守るためにも子育て世代に耳を傾けてほしい。話を聴きたいという人がいれば、できる限り活動を続けていきたい」

     =随時掲載します=

◎久留米空襲とは

 1945年8月11日午前10時20分ごろから昼にかけて約150機の米軍機B29などが久留米市街地や軍需工場に焼夷(しょうい)弾を投下。市民214人が犠牲になり、全戸数の約26%に当たる4506戸が焼失。約2万人が被災した。


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