9月23日開業 九州新幹線長崎ルート 紆余曲折の半世紀、歴史振り返る

九州新幹線長崎ルートを巡る経緯

 紆余(うよ)曲折を経て部分開業する九州新幹線長崎ルート。その歴史を振り返る。
 同ルートは1973年に整備計画が決定。そのわずか1カ月後、石油危機後の財政難などを背景に凍結した。78年には全国で拒まれた原子力船「むつ」の修理を佐世保で引き受ける代わりに、国に優先着工を認めさせた。いわゆる「むつ念書」だ。
 しかし、87年にJR九州が「早岐回りのフル規格では収支改善効果が現れない」と表明。ルートの再検討を余儀なくされ、92年に長崎、佐賀、福岡3県とJR九州が佐世保を経由せず、武雄と大村をほぼ直線で結ぶ短絡ルートに決まった。
 96年、JR九州が並行在来線(肥前山口-諫早)の経営分離を発表すると、佐賀県の複数自治体が反発。2007年、並行在来線の在り方について、線路や駅舎などを長崎、佐賀両県が維持管理する一方で、開業後も20年間はJR九州が運行する上下分離方式で合意した(16年に23年間に延長)。
 09年、政権交代した民主党が未着工区間の着工判断は「白紙」と表明。その後、導入予定のフリーゲージトレイン(軌間可変電車、FGT)の開発にめどが立ったとして、12年に着工が認可。地元関係者は「やっとこの時が来た」と期待に沸いた。
 だが、FGTの技術開発が難航。実用化が見通せず、17年に国交省が22年度の導入を断念した。この状況にJR九州は全線フル規格の整備を国に求め、本県もフルにかじを切った。
 与党検討委員会は19年、全線フル規格での整備が適当とする基本方針をまとめた。これに対し、佐賀県は財政負担増や在来線の利便性低下などを理由に反発。未着工区間(新鳥栖-武雄温泉)の整備方式を巡り、同省と同県が20年6月からフル規格を前提としない「幅広い協議」を開始。これまでに6回開いているが、議論は平行線をたどっている。


© 株式会社長崎新聞社