大震災と子どもたち

 春が近づくと、現場で撮影した写真を見返し、当時の惨状を思い起こすようにしている。太平洋に面した広大な荒れ地に無数のがれきの山。浴槽や車の残骸に交じって、中学生の白い靴と幼児用の赤い乗り物を見つけた。兄妹か。無事に避難できたのだろうか▲2011年3月11日の東日本大震災発生から3カ月後、取材で福島県に入った。大津波、大地震、原発事故の三重苦。放射線被ばくに関する情報も錯綜(さくそう)し、大混乱のさなかだった▲多くの住民が避難した内陸部の福島市にも、放射線量が局所的に高い場所が複数存在。子どもたちは終日、屋内での生活を余儀なくされていた▲「放射能はうつる」。こんなデマも流れ、避難先の県外の学校でいじめが起きた。地域社会でも、原発までの距離や放射線量によって差別する人、される人が生まれた▲静寂の公園を走り回る小さな女の子に出会った。「長崎の知人にあまり神経質にならない方がいいと言われて。閉じこもっているのも体に悪いので…」。そばで寄り添う母親が取材に応じてくれた▲その女の子は今、中学生だろうか、高校生だろうか。福島県で本年度から「高校生語り部事業」が始まった。当時の記憶が残る最後の世代が、県内外の同世代と過去を共有する県教委の取り組み。共感の輪が大きく広がるといい。(真)

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