医療の常識を変える?貼り付けるだけで臓器を再生させる「細胞シート」とは

最先端の化学や科学の研究によって、将来の日常が変わるかもしれません。しかし、ニュースなどで紹介されても「難しくてよくわからない」と感じる人も多いのではないでしょうか?

そこで、化学講師・坂田 薫(@kaorukagaku)氏の著書『「家飲みビール」はなぜ美味しくなったのか?』(ワニブックスPLUS新書)より、一部を抜粋・編集して最先端技術を解説。今回は、工学と医学の融合で生まれた画期的なテクノロジー「細胞シート」を紹介します。


「今の自分にとっての当たり前」を維持できる未来

みなさんは、これから先の人生、何をして過ごしたいですか?

「死ぬ直前までバリバリ働きたい」「仕事はほどほどにして、パートナーと旅行を楽しみたい」「趣味のゴルフをもっと極めたい」など、年齢や環境によっても様々なことでしょう。

しかし、どんな人の願望にも共通していることがあります。それは、「今の自分にとって当たり前にできていることが、これから先も変わらずできている」という前提です。

「今の自分にとって当たり前にできていること」は人それぞれですが、例えば私だと「目が見える」「歩くことができる」「食べることができる」などです。これらは、今の自分には当たり前であっても、未来の自分にとって当たり前とは限りません。

では、「今の当たり前」がそうでなくなるとしたら、そのきっかけは何でしょうか。当然、「病気」や「けが」ですよね。こればっかりは、どんなに気をつけていても完全に防ぐことは不可能。いつ、そのときがやってきてもおかしくありません。なんて考えていると、不安になってしまいますよね。

しかし、みなさん! その不安から解放される未来が、やってくるかもしれません。想像してみてください。病気になっても、けがをしても、負担の少ない治療で、みなさんの「今の当たり前」を維持できる未来。その未来では、今よりも笑顔の数が増えているのではないでしょうか。

そんな未来を実現できる技術の1つが、日本発の「細胞シート工学」です。

心臓に貼り付けると一体化する

失われた臓器や、機能が低下した臓器を再生する「再生医療」。2012年、京都大学教授の山中伸弥博士がiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞し、一気に注目されるようになりましたね。再生医療は、臓器移植が抱える問題の1つ「ドナー不足」を解決できるとして、大きな期待が寄せられています。

さて、再生医療の中でもっとも注目されている方法の1つに、日本発の「細胞シート工学」があります。特徴を一言で言うなら、「施術が簡単」! なんと、みなさんの体にある「体性幹細胞」や人工的に作られる「iPS細胞」を培養して「細胞シート」を作り、それを患部に貼り付けるだけ! 縫合も必要ないため、患者にとっても医師にとっても負担が少ないのです。

例えば、すでに実用化され、保険適用にもなっている細胞シートに、心不全治療用の「ハートシート」があります。これは、太ももの筋肉の細胞を培養させて作った細胞シートで、患者の心臓に貼り付けるとシートが心臓と一体化し、血液を送り出す力が回復するというもの。

効果が気になりますよね。「細胞シート工学」を開発した東京女子医大特任教授の岡野光夫博士は、次のように述べています。

「手術から3ヶ月後には心臓の収縮力が上がり、7ヶ月後回復して、人工心臓を外せた。患者は2年入院していたのに、歩いて退院できるまでに回復した。その後、数年以上の長期間追跡して副作用がないことも確認している」

また、大阪大学ではiPS細胞を使った心筋細胞シートを使った治験も実施。2020年2月の時点で3例目の被験者まで移植が完了し、経過は順調だとか。

近年、日本人の死因第2位として定着している心疾患。近い将来、ランク外になる日がやってくるかもしれませんね。

貼り付けるだけで視力回復?

細胞シートを使った治療の実例は、心臓だけではありません。例えば、眼の角膜。角膜の上皮幹細胞が外傷などでダメージを負うと、視力を取り戻すには移植しかありません。

しかし、ドナーは不足。また、他人の角膜では拒否反応も問題となります。そこで、組織が似ている口腔粘膜から幹細胞を採取。それを培養して細胞シートを作ります。ダメージを負って濁った角膜表面の組織を除去した後、細胞シートを貼り付けると、術後1ヶ月で角膜が透明になるのだとか。

大阪大学の記事によると「視力0.01未満の患者さんが0.9まで回復するなど、これまでに素晴らしい実績を残している」とのこと。現在は、口腔粘膜の幹細胞ではなく、iPS細胞を使用した角膜上皮そのものの細胞シートが作られ、それを使った臨床研究が進んでいます。

その他にも、歯根膜(歯周病の治療)、膝の軟骨、そして冒頭のニュースの十二指腸の再生など、細胞シートは様々な治療に利用され、実績を積み重ねています。

しかし、なぜ、細胞シートは縫合しなくても貼り付き、患部と一体化していくのでしょうか。ここに、細胞シート工学の最大のポイントが隠れています。

細胞シートが抱えていた問題点

通常、細胞を培養して細胞シートを作るときには、「シャーレ」とよばれるガラス容器を使用するのですが、完成した細胞シートがシャーレの底に貼り付いてしまい、うまく剥がすことができません。原因は、細胞と細胞の間を埋めているタンパク質です。このタンパク質は、細胞同士をつなぎ合わせる糊のような役割を持っており、シャーレの底に貼り付いてしまうのです。

みなさんなら、シャーレに貼り付いた細胞シート、どうやって剥がしますか? 「無理矢理引き剥がす!」と答えたあなた。いいですね。ワイルドですね。ただ、そうすると、せっかく作った細胞シートが傷ついてしまいます。

「原因のタンパク質を壊す!」と答えたあなた。これもいいですね。タンパク質の分解酵素を加えると、タンパク質を分解して壊すことができます。しかし、この方法だと、細胞同士が離れてバラバラになってしまい、患部への生着率が大きく低下してしまいます。

お気付きになりましたか? タンパク質が原因でシャーレに貼り付いてしまうけれど、患部に生着させるには、このタンパク質が必要なのです。このタンパク質があるからこそ、細胞シートは患部に貼り付き、一体化していくのです。

温度によって性質が変わる高分子?

「タンパク質を残したまま、細胞シートをシャーレから剥がす」。この課題を解決したのが、「温度によって性質が変わる高分子」です。

高分子というのは、小さい分子を化学反応でたくさん結合させて作った、大きな分子です。小さなビーズ(小さい分子)をたくさんつないで作るネックレス(高分子)のようなイメージですね。

例えば有料化されたレジ袋、飲料水の容器であるペットボトル、今私のデスクに転がっている接着剤など、みなさんの身の周りには人間が作った高分子がたくさんあります。

そして、高分子の中には特別な機能を持つものがあります。例えば、おむつに利用されている高吸水性高分子や、環境問題の対策として研究が進む生分解性高分子(微生物の活動により分解される高分子)、有機ELディスプレイにも利用されている導電性高分子(電気を通す高分子)などはみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

これらと同様に「細胞シートがシャーレの底に貼り付いて困るよ問題」を解決した、温度が変わると性質が変わる高分子も「特別な機能をもつ高分子」の1つで、温度応答性高分子といわれます。

細胞シート工学に利用された温度応答性高分子は、32度より低い温度では水が結合し、大きく膨らみます。水と仲が良い状態です。しかし、32度以上の温度では結合が切れて水が離れていき、高分子はギュッと集まって小さくなります。水と仲が悪い状態です。

この高分子をシャーレの表面に、ナノレベルで均一に固定します。そうすると、シャーレの底は5度を境に、性質が変わることになります。32度より低いときは水と仲が良く、32度以上では水と仲が悪くなるのです。

では、この温度で性質が変わるシャーレ(以下、『UpCell』)を使って細胞シートを作ってみましょう。みなさんの想像力の出番です! まず、体温に近い37度で『UpCell』を使って細胞を培養し、細胞シートを作ります。このとき、『UpCell』の底は水と仲が悪く、細胞シートが貼り付いています。

そして、細胞シートが完成したら20度まで温度を下げましょう。『UpCell』の底は水と仲良しになるため、細胞シートと『UpCell』の底のあいだに、するすると水が入ってきますよ。この水のおかげで、細胞シートを傷つけることなく剥がすことができるのです。

興奮を隠せない工学と医学の融合!

私が「細胞シート工学のお話を書きたい!」と思ったのは、「貼り付けて治す」という細胞シート自体のすばらしさもありますが、それよりも、温度応答性高分子という「工学技術」と、それを治療に結びつける「医学技術」の融合で生まれた技術という部分に興奮したからです。

実際に、細胞シート工学を創出した先端生命医科学研究所には、東京女子医科大学と早稲田大学それぞれの先端生命医科学研究センターが入っており、医学・理学・工学が連携して研究を推進する拠点となっています。

エンジニアと医師が一体になって研究を進めているのです。1つの同じ建物のなかで、異なる学校法人の異なる学部が一緒に研究している施設は他にはありません。

実は工学部出身の岡野光夫博士。博士がアメリカの大学院のバイオエンジニアリングに留学したとき、あることに疑問を感じます。それは、半導体の研究をしている人にまったく異なる分野の生命科学や高分子化学を教えていたことです。そこで、教授に「そんなことに意味があるのか」と尋ねたときのことを、次のように述べています。

「(博士の疑問に対して学科長の教授は)『われわれは1世紀の、人類未来のライフサイエンスのフィールドを耕そうとしているのだ。従来の教育と同じ教育をしていては私たちのコピーをつくることしかできない。
その限界を越えられる人間をつくるには、われわれが教育されなかったコンセプトとテクノロジーを教えるべきだ』というのです。実際、それから10年たつと、アメリカの研究者は半導体と遺伝子を組み合わせた遺伝子チップを開発し医療に利用され始めた。日本では考えられない戦略的な人作りから始まる、無から有を生み出す挑戦でした」

1つの分野だけを見て行き詰まったとき、他の分野に目を向けることで道が切り開けることは少なくありません。私自身が、たくさんの研究者から聞いた言葉でもあります。

異分野が連携して新しいものを生み出していくスタイルは、もっと日本の大学が取り入れていくべきではないでしょうか。そして、これは大学に限った話ではなく、人生において行き詰まったとき、私たちが思い出すべき言葉かもしれません。

著者 坂田 薫

[(https://www.amazon.co.jp/dp/4847066677)※画像をクリックすると、Amazonの商品ページにリンクします
家飲みビール、コロナワクチン、原子力電池、銅マスク、細胞シート、第5のがん治療、宇宙エレベーター、電動車……身近なニュースから化学のリテラシー、高めませんか⁉ オンライン学習サービス『スタディサプリ』や大手予備校で化学を担当する人気講師が教える日本の最先端の〝化学力〟!
「仕事終わりのビールはうまい! ……というセリフを、居酒屋ではなく家で言うのが当たり前になったコロナ禍。緊急事態宣言により飲食店は時短営業となり、いわゆる〝家飲み〟が仕事終わりの定番となりました。そんな中、居酒屋で飲むからうまいはずだったビールが、家で飲んでも意外にうまいと感じた人も多かったのではないでしょうか。実は、ビールの研究にも日本発の最先端技術が利用されているのです。その技術とは、2013年に東京大学の藤田誠教授らによって開発された結晶スポンジ法なのです――本書ではこのようなあなたの生活の隠された〝なぜ?〟を化学の視点からわかりやすく解説! 明日から使えるうんちく満載です!!」(著者より)

© 株式会社マネーフォワード