ミゲルの晩年解明への最大の功労者 “墓守”の井手さん 亡き妻と手入れ、供養

墓石の前でミゲルの晩年に思いをはせる井手さん=諫早市多良見町

 大村湾からの風が新緑を揺らしていた。長崎県諫早市多良見町山川内。小高いミカン畑のそばに大きな自然石の墓石(最大長約2.5メートル)がある。民間の発掘調査チームが4月、天正遣欧使節の一人、千々石ミゲルとその妻の墓所と確定した場所だ。歴史に埋もれていたこの地に光が当てられた陰には“墓守”の存在がある。ミカン農家の井手則光さん(80)と、亡き妻榮子さん=昨年4月、80歳で死去=。「歴史的な人物が眠っていたなんて」-。感慨深げな表情で謎の多いミゲルの晩年に思いをはせる。
 25歳で結婚、井手家の養子になった。隣には古いほこらが立ち、中には裏面に刻まれた文字から「玄蕃(げんば)さん」と呼ばれていた墓石。そこにはこんな言い伝えがあった。「大村の武士が藩主から追い出され、ここに逃げてきて、大村藩のことを恨みながら自害した」-。明治期に鉄道が通るまで、墓所からは大村藩主の居城だった玖島城を望むことができたという。
 かつては近隣3軒で毎年12月13日に煮しめを作り、供養を続けていたことも聞いたが、結婚したころには竹やぶが生い茂り、訪れる人の姿もなかった。ミゲルの子孫に当たる浅田家は、明治半ばに大村から東京に転居。墓所の現在の所有者で、調査チーム代表の浅田昌彦さん(68)=川崎市=は「墓の存在を知らなかった」と言う。
 昭和40年代前半の自然災害で裏の斜面が崩れ、ほこらは倒壊。ふびんに思った井手さんは、流れ込んだ土砂に埋まって傾いた重さ約2トンの墓石を復旧。「みすぼらしいから屋根を造ってあげよう」という榮子さんの提案で、ほこらも建て替えた。
 転機は2003年12月14日。夫婦でミカンを収穫していると2人の男性が訪ねてきた。「井手さん、この墓は将来、いろんな人たちが見に来ることになりますよ」。墓石を確認した石造物研究家、大石一久さん(70)が興奮気味にこう語ったのを覚えている。ただ、そう聞いてもピンとこなかった。「歴史に疎く、ミゲルや天正遣欧使節と言われても、よく分からなかった」と苦笑いする。
 大石さんらは翌04年、ミゲルの四男玄蕃が両親のために建てた墓石と発表。それを裏付けるため、14年から4度にわたって発掘調査が進められた。井手さんは発掘を見守り、周辺の手入れや供養を続けた。榮子さんも車いす生活になるまで手伝った。
 調査では二つの埋葬施設と男女2人の骨が出土。墓石は禁教令後の1633年に没した男女2人の戒名が刻まれた日蓮宗形式だったが、女性の墓からはキリシタンの副葬品も見つかった。調査チームは指導委員会(委員長・谷川章雄前日本考古学協会長)の判断を踏まえ、今年4月、「ミゲル夫妻の墓所と確定することができた」と発表した。調査統括を務めた大石さんは「住民が供養し、近年では井手さん夫妻が守ってきたからこそ、墓石発見や今回の発表につながった。夫妻は最大の功労者」と話す。
 発表を受け、井手さんは妻の遺影に報告した。同使節4人を巡っては墓所として確定に至った遺跡はなく、今後は文化財指定に向けた動きも焦点となる。「城が見える場所に埋葬されたということはミゲルは大村藩のことを思い、最期は静かな気持ちで亡くなったのではないか。日の目を見て、ミゲルも喜んでいると思う」。同使節の中で唯一、キリスト教を棄(す)てたとされるが、棄教しなかったとの説もあるミゲル。その晩年の解明が進むことを願っている。


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