“ノーモア”訴えた国連演説から40年 故山口さん娘・朱美さん「父の言葉、もう一度」

山口仙二さんの演説文を読み返すことが増えたという長女朱美さん。「父の言葉が世界に届いてほしい」と願う=長崎市内

 ちょうど40年前。長崎の被爆者、山口仙二さん(2013年に82歳で死去)が世界に訴えた。「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」。核の「非人道性」を厳しく追及した不朽の演説は、核廃絶運動の礎となり、核兵器禁止条約成立にもつながった。核の危機が高まる今、遺族は願う。「あの言葉がもう一度、世界に届いてほしい」
 長女の野田朱美さん(61)=長崎市=は最近、仙二さんの自叙伝に収録された演説文を読み返すことが増えた。ロシアがウクライナに侵攻し、核の威嚇を続けている。世界は被爆者が望む方向と「反対に行っているようで怖い」。不安の中、父の言葉に立ち返りたいとページをめくる。 1982年6月24日、米ニューヨークの国連本部。当時51歳の仙二さんは壇上で、ケロイドを負った自身の写真を掲げた。「私の顔や手をよく見てください。世界の人々、これから生まれてくる子どもたちに、私たち被爆者のような核戦争による死と苦しみを一人も許してはなりません」。日本の被爆者として初めての国連総会での演説だった。

第2回国連軍縮特別総会で演説した山口仙二さん=1982年6月、米ニューヨークの国連本部

 原爆は広島と長崎に「反人道的な絶滅的破壊」をもたらしたと強調。国際社会に「核兵器の使用を人道に反する犯罪として禁止する国際協定」の実現や、「被爆者や核実験の被害者」への援護などを訴えた。その後も多くの被爆者らが各地で訴え続け、「非人道性」や「核被害者支援」などの考え方は核兵器禁止条約にも盛り込まれた。
 朱美さんによると、仙二さんは家庭で被爆者運動について語らなかった。だが国連演説の前には自宅で何度も練習を重ねていたと、母に聞いた。「運動を積み重ねて、積み重ねて、少しずつ軍縮も進んだ」と朱美さん。演説文を声に出して読み直し、父の気持ちを想像して涙があふれることもある。
 全身に痛々しいやけどを負った少年時代の父の写真を見ると、ロシアをはじめとする核保有国のリーダーたちに怒りをぶつけたくなる。「自分の親が、子がこうなってもいいのだろうか。一体、核兵器で何を守ろうとしているのか」と。
 演説から40年がたっても国際政治は混沌(こんとん)とし、核廃絶への道筋を描けない。そんな中で核兵器禁止条約の第1回締約国会議が、21日からオーストリア・ウィーンで始まる。
 朱美さんは、仙二さんがよく口にした言葉にヒントがあるように思う。市民社会の力に期待を込めた「草の根運動」。父の思いを、こう代弁する。「今こそ、世界の一人一人に考えてほしい。核兵器は本当に必要なのか。戦争なんて『昔の話』にしなければ」


© 株式会社長崎新聞社