「戦争の犠牲者なのだから」 漂着遺体埋葬、幼心に刻む 無名戦没者の慰霊塔建立

慰霊塔の前に立つ浜田さん=新上五島町、曽根教会納骨堂

 9歳の夏、日本の西の端の小さな島で終戦を迎えた浜田千次郎さん(86)=長崎県新上五島町曽根郷=。小さな胸に幾重もの戦争と原爆の記憶を秘めてきた。10人きょうだいの3番目。兄は他界、姉は体調を崩し、浜田家に刻まれた記憶を語れる人は他にいない。
 1945年8月-。長崎原爆の数日後、父方の叔母とその夫が帰郷した。北魚目の出身。叔父は三菱関係の会社に勤め、竹の久保町の自宅にいたらしい叔母は被爆。やけどを負っていなかったものの、髪がぼろぼろに抜けていた。身を寄せた夫の親戚の家で程なく息を引き取った。今と違い、テレビなどで状況を知るよしもなく、叔母の姿が原爆の恐怖として残る。
 同8月14日-。「米軍機が3機いたと思う。北魚目の上空でも旋回して、ものすごい音がした」。米軍機による北松小値賀町への機銃掃射が忘れられない。20分ほど続き、防空壕(ごう)にじっと隠れた。戦時中と分かっていたが、これほど怖い思いをした経験はなかった。
 そして終戦後-。自宅近くの先の浜(通称)に、遺体が漂流物に紛れて漂着した。住民が引き揚げ、浜の近くに埋葬したという。冬になり、ゲートルを巻いた遺体が漂着した。剣を下げ、兵服に名前も書かれていた。終戦の数カ月前、旧日本兵が乗った沖縄行きの船が沈没したという話と関係があると思った。この人以外、名前も分からない戦争の犠牲者たちが島に流れ着き、葬った記憶は幼心に刻み込まれた。
     ■
 中学卒業後、漁師の道へ。6人の子どもに恵まれ、定置網漁で生計を立てた。40代に入った80年頃、喪服を着た人たちが夢枕に立った。「漂着した遺体をきちんと供養しなければならない。この人たちは戦争の犠牲者なのだから」。30数年前、浜の近くに土葬した遺体10数体を地域の人たちと掘り返し、町の火葬場で葬った。

1980年頃、慰霊塔を建立し、祈りをささげる浜田さん(右から4人目)ら=新上五島町曽根郷(浜田さん提供)

 当時、カトリック信徒の多くは土葬が主流。土葬の墓地に火葬した遺骨を納めることを嫌がる声もあり、近くの山を切り開き、慰霊塔と「無名戦没者の墓」と記した墓標を建てた。すると、大勢の人が喪服姿で夢枕に現れ、「お礼を言いに来てくれたようだった」。
 94年、火葬した骨を納める墓が並ぶ曽根教会の納骨堂が完成。名もなき戦没者の遺骨も2012年4月、納骨堂の一角に移された。「小さな島の住民たちが守ってきただけに、安住の地が得られて、ほっとした」
 戦争の記憶は緩やかに過去になっていく。それでも鮮明さは消えない。「核兵器がなくなれば、原爆で死んだ叔母の痛ましい姿の記憶が薄れるとも思えない。戦争をなくしたいという思いは、経験した人でなければ分からないだろう」
 毎年8月15日、教会で祈りをささげる。今年のミサで無名戦没者への祈りを神父に願い出た。「自分の国だけじゃだめだ。世界全体が平和にならなければならない」。穏やかな瞳に、深く刻まれた悲しみと平和への願いが宿る。


© 株式会社長崎新聞社