揺らぐ平和、祈りの歌声 被爆者歌う会「ひまわり」最後の式典

式典で最後の合唱をする「ひまわり」=長崎市、平和公園

 長崎に、今年も「原爆の日」が巡ってきた。ロシアはウクライナに侵攻し、核で威嚇。核保有国と非保有国の溝は深まり、世界の核情勢は大きく揺らぐ。被爆者や被爆体験者の高齢化は一層進み、「核なき世界」は今なお遠い。それでも被爆地長崎では9日、核廃絶と平和への祈りが広がった。手を合わせ、花を手向け、歌声を響かせた。「長崎を最後の被爆地に」。そう願いながら。

 「聞こえていますか 被爆者の声が」。被爆者歌う会「ひまわり」が9日、長崎市の平和祈念式典で合唱を披露した。2010年から続けてきたが、会員の高齢化などに伴い、式典での歌唱は今回が最後。核廃絶の願い、平和への祈り、原爆で犠牲となった人々への鎮魂-さまざまな思いを乗せ歌声を響かせた。
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 午前10時20分。
 最後の式典出演の直前。練習を終え、ひまわりを主宰する長崎市の音楽家、寺井一通さん(73)が声をかけた。「素晴らしいです。いつも通り、歌いきりましょう」。会員たちは万感の思いで、「舞台」に向かった。

平和への思いを込め歌う会長の田崎さん=長崎市、平和公園

 会長の田崎禎子さん(81)は4歳の時、爆心地から4.5キロの長崎市愛宕町(当時)で母と姉と被爆。近くの牧場主の家へ駆け込み、何とか無事だった。だが伯母やいとこが犠牲となり、父は出征先のフィリピンで戦死。戦後は貧しく「戦争は絶対に嫌」と思いながら生きてきた。
 「世界唯一の被爆者の合唱団」として2004年に発足した「ひまわり」。10年から式典で代表曲「もう二度と」を披露し、歌を通して核廃絶や世界平和を訴えてきた。被爆70年の15年には、米ニューヨークとドイツでも公演した。
 田崎さんは08年に入会。話すのも書くのも苦手だが、歌でなら思いを届けられるかもしれない。原爆で犠牲になった人たちの供養にもなるかもしれない-。田崎さんにとって「ひまわり」は大切な居場所であり、生きがいになった。
 胎内被爆者の小山マツ子さん(76)は11年に入会した。両親とも被爆者だが、戦争や原爆について多くを語らぬまま他界。だからか内心ずっと「戦争を知らない自分は被爆者だけど被爆者じゃない」と感じていた。だが、ひまわりの活動を重ねるうちに分かった。「被爆者が訴えないと伝わらないことがある」
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 新型コロナ流行に伴い、週1回のレッスンも会員が顔を合わせる機会もなくなった。昨年、一昨年の式典での合唱は中止。会員はピーク時には約50人いたが、現在、体調不良などで11人にまで減った。結成以降11人が亡くなった。
 今年2月、ロシアがウクライナに侵攻。「なぜまた子どもたちが悲惨な目に」「平和を訴えてきたのに」。誰もが歯がゆさを抱える中、長崎市は4月中旬、ひまわりに式典参加を打診。人数の確保や体調面など不安もあったが「コロナにも戦争にも負けたくない。最後もきちんと歌って納得したい」と出演を決めた。
 継承に向けた動きもある。8年前からレッスンに参加しサポートしている被爆2世の月川富美子さん(56)は、ひまわりの活動を今後どう維持していくかアイデアを練る。今年、1万人署名活動を展開する高校生と合同プロジェクトにも取り組んだ。「種」はまかれている。
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 直前で会員の何人かが体調を崩し、出演できなくなった一方、元会員で10歳の時に入市被爆した山下朝子さん(87)は東京から駆けつけた。被爆後、放射線の影響で体がまひし、1年半寝たきりの生活を送った時期もあった。「歌で若い世代に伝えないと」
 そして本番。会員9人と元会員らを合わせ23人が会場に並んだ。前を向く。「もう二度とつくらないで わたしたち被爆者を」。力強く、心を込めて届けた。ひまわりにしか歌えない、平和の歌を-。


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