「空襲犠牲者の無念伝えるのが生き残った者の役割」大阪大空襲の体験を語る久保さん

戦争体験者が少なくなってきている現代において,「戦争体験」の継承がより重要となっている。「大阪大空襲の体験を語る会」が解散したのは2020年3月末のこと。会員の減少や高齢化で活動は年々困難になったことがその理由だった。大阪の主婦が「空襲の記録を残そう」と呼びかけて半世紀近く、証言集や体験記を発行してきた。代表の久保三也子さん(92)=大阪市福島区=の体験に耳を傾けた。(新聞うずみ火 矢野宏)

大阪は太平洋戦争末期の1944年11月から敗戦前日の45年8月14日までに50回を超える空襲を受け、死者・行方不明者は約1万5000人。100機以上のB29爆撃機が来襲した大空襲は計8回を数える。

70年に作家の早乙女勝元さんらが「東京空襲を記録する会」を発足。刺激を受けた大阪府豊中市の主婦、金野紀世子さん(2008年5月に85歳で死去)が翌71年3月、朝日新聞に「大阪大空襲を私たちの手で記録にとどめよう」と投稿。2カ月後、天王寺区の教育会館に15人ほどが集い、「語る会」を発足した。久保さんは金野さんと新聞投稿仲間。金野さんから体験記の整理を依頼され、加わることになった。7月には最初の「大阪大空襲体験記」を自費出版する。その後も会員らが手弁当でコツコツと証言を聞き取り、97年までに体験画集を含めて9冊の体験記を出した。 初代代表だった金野さんは生前、こう語っていた。

「どんな人でも話しながら泣きます。聞きながら私たちも涙が出てきます。涙と一緒の仕事やから、よけいしんどいんですわ。そやけど、風化の一途をたどる大空襲の犠牲者への供養になると思ってます」

語る会では空襲で亡くなった「母子像」の建立や追悼式典の開催にも尽力するとともに、小中高校を回って自らの空襲体験を語ってきた。

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■「火の滝が降る」

99年に金野さんが脳梗塞で倒れ、2001年に2代目の代表となった久保さんは会員名簿を整理し直し、主なメンバーらと証言を語り継いできた。

久保さんは1929年、4人きょうだいの次女として生まれた。父親はアメリカへの留学経験があり、貿易業などを営んでいた。41年12月に太平洋戦争が始まった時、「戦争が2年以上続いたら、日本は負ける」と語っていたという。

「私、軍国少女やってん」。大阪大空襲の体験を語る久保さん

大阪が最初の大空襲に見舞われたのは45年3月13日。当時、久保さんは府立泉尾高等女学校(現・府立大正白稜高校)3年生だった。福島区の自宅から南側を見ると、B29爆撃機が投下した焼夷弾のリボンが燃え、「火の滝が降ってきたようだった」と振り返る。

「きれいなもんやなあと思いました。火の滝の下側に浮かび上がっていた家々が次々に消えていくのです」

13日深夜から14日未明にかけての3時間半で、274機のB29によって焼夷弾1773トン、6万5000発あまりが投下され、大阪市の中心部、当時の西区や浪速区、南区、大正区などが灰燼に帰した。

翌朝、久保さんは学徒動員されていた大正区の軍需工場へ向かった。教師から「何があっても絶対に休むな」という教師の命令は絶対だった。自宅周辺とは違い、大正区は一面の焼け野原で、工場も学校も庁舎も焼失していた。

自宅待機を命じられ、歩いて帰る道すがら空襲の惨劇を目の当たりにする。

防火用水の周りには焼け焦げた遺体が散らばっていた。橋の上では窒息した死骸がいくつも倒れており、久保さんは「ごめんね」と思いながら、またいで行った。

吹き飛ばされた防空壕の中で亡くなっていた人の内臓を見た時、「同じ死ぬのなら黒焦げになりたい」と思ったほどの惨状だった。

川にきれいな着物の女性が流れていた。「人間やとは思われへんかった。忘れられへん。松島遊郭の女の人やったと知ったんは後のことやわ」

■火薬作業で肺病む

4月、4年生になった久保さんは戦時特別措置で繰り上げ卒業となった。両親は徳島の実家への疎開を望んだが、軍国少女だった久保さんは大阪府枚方市にあった日本有数の火薬製造所である陸軍造兵廠香里製造所での勤労動員を選ぶ。

当時の枚方市は「兵器の街」だった。明治時代に陸軍の禁野火薬庫が置かれた。淀川流域の丘陵地で人家が少ないというのが理由だった。昭和に入ると、火薬庫に隣接する形で枚方製造所や香里製造所が置かれ、砲弾や爆弾製造の一大拠点となった。最盛期には、陸軍で使用する火薬の3分の1を生産していたという。

動員された学徒たちは全寮制で12時間労働の昼夜2交代で、火薬を弾薬に詰める作業に追われた。軍手とマスク、地下足袋などを支給されたが、久保さんは粉塵のように舞う火薬を吸い込んで肺を病み、皮膚を傷めた。爪もだいだい色に変色したという。

「風邪薬を飲んでもジンマシンが出るし、化粧も一切できない。爆音で右耳が聞こえなくなり、においもわからないのよ」

「大阪大空襲の体験を語る会」の活動を振り返る久保さん

6月1日の第2次大阪大空襲では458機ものB29が白昼の大阪を襲い、久保さんの自宅も丸焼けになった。

「空襲のあとで家に帰ると、駅を降りると一面焼け野原でした。もうびっくりしてね、両親は大丈夫やろかと不安でした。家は丸焼けでしたが、防空壕の中から『おーい、ここや』という父親の姿を見た時はうれしかったわ」

■勝者敗者も悲し

8月15日の敗戦は香里製造所で迎えた。翌日、動員解除が閣議決定された。久保さんは家族のもとへ帰る途中、京橋駅に降り立った。

その前日、大阪は最後の大空襲に見舞われていた。米軍の攻撃目標は、現在の大阪城公園にあった「東洋一の軍需工場」大阪陸軍造兵廠。近くの京橋駅も1トン爆弾の直撃を受け、多くの乗客や駅員が犠牲となった。

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「空襲で亡くなった人の無念を誰が伝えるのが、生き残った者の役割ではないか」と、これまで活動してきたが、2019年8月に重い貧血で入院し、会の解散を考えるようになったという。

「活動を続けるうちに、私が作った爆弾で誰かが死んだり、傷ついたりしたのではないかと考えるようになった」という久保さんはこう言い添える。

「戦争は勝っても負けても、どちらの国にも悲しい思いをする人をつくる。そのことを若い人たちに知ってほしい。体が許す限り、語り部の活動は続けていきます」

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