北朝鮮は今も監視と密告社会…帰国20年の地村保志さんら、まだ帰らぬ拉致被害者に思いはせ【拉致帰国20年の真実】

2002年10月15日、羽田空港に到着し政府チャーター機を降りる地村富貴恵さん(手前中央)、保志さん(同右)、蓮池祐木子さん(中央左)、薫さん(同右)、曽我ひとみさん(上)

 初の日朝首脳会談から約1カ月後の2002年10月15日、福井県小浜市の拉致被害者地村保志さん、富貴恵さん夫妻=ともに(67)=ら5人が、北朝鮮から帰国した。それから丸20年たち、政府認定の拉致被害者17人のうち12人は今も北朝鮮に残る。地村さん夫妻らと一緒に帰国した新潟県佐渡市の曽我ひとみさん(63)は言う。「今この瞬間にも、日本につながる青い空と海を見ながら、日本に帰ることを信じている人がいる。私がそうだったように」。拉致被害者や支援者の思いをたどる。

 地村さん夫妻は、1978年7月に拉致されてから24年ぶりに帰国が決まったときの心境を、周囲に打ち明けている。「心配の方が大きかった。(私たちを)家族はどうやって受け止めるの? と思った」(富貴恵さん)。「空港で家族がひっそり待っているイメージだった。羽田空港に到着してから、実況中継され、大変な騒ぎになっていることに驚いた」(保志さん)。

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 「日本に行けば、街宣車に取り囲まれ『北の回し者だ』『スパイだ』とののしられるだろう」。新潟県柏崎市の拉致被害者蓮池薫さん(65)は、北朝鮮当局から帰国前にこう言われたと著書で明かしている。

 当初は一時帰国の予定だった地村さん夫妻と蓮池さん夫妻、曽我さんの5人は、左胸に付けていた故金日成(キムイルソン)国家主席の肖像画が入ったバッジを外し、永住を決断した。北朝鮮との決別だった。

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 5人の帰国から1年7カ月後の04年5月、当時の小泉純一郎首相は、拉致被害者の子どもを取り戻すために再訪朝した。地村さん夫妻は当時の心境を「(北朝鮮当局に指示され)子どもたちが『日本に行きたくない』と言ったら、どうしよう。『お父さんお母さん、会いに来てください』と言ったら、北朝鮮に行くしかないと思った」と関係者に漏らしている。

 現在、地村さん夫妻の子ども3人は独立し、日本の社会で暮らす。保志さんは帰国10年を迎えた12年の会見で「心からの感謝に満ちた10年」と述べた。

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 北朝鮮で保志さんは、工作員数人を相手に日本語を教えたり、日本の新聞などを翻訳したりした。毎週月曜日の昼食後には、生活総括という学習会があり、自己批判を繰り返した。

 保志さんは「とにかく(指導者を)たたえないと、暮らしていけない。変なことを言うと捕まる」と振り返る。曽我さんも「知らない人に監視され、出かけるときも気を張った。誰にも心を打ち明けず、静かに、目立たないように生きてきた」と語る。

 11年、金正日(キムジョンイル)総書記が死亡し、三男の正恩(ジョンウン)氏が後を継いだ。北朝鮮情勢に詳しいジャーナリスト西岡省二さんは「トップが代わっても、金王朝への忠誠競争と、(職場でも自宅でも)監視密告される社会は続いている」、保志さんも「(北朝鮮の)体制に大きな変化はないと思う」と指摘する。

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