「戦争やめよう、核兵器なくせ」 解散した長崎県被爆者手帳友愛会・元副会長の濵田さん 一人でも体動く限り活動

自らが被爆した旧手熊国民学校跡地で、当時の体験を語る濵田さん(右)=長崎市手熊町

 今春解散した被爆者団体「県被爆者手帳友愛会」の元副会長、濵田眞治さん(84)は会が閉じた後、個人での反戦反核運動を模索している。4日は「県被爆二世の会」の依頼で、自らが被爆した長崎市手熊町で体験を証言。組織がない中で思いを広げる難しさを感じつつも、こう希望を語る。「一人でも勇気を持って国に戦争をやめよう、核兵器をなくそうと言う人が増えれば実現できる」
 濵田さんは7歳の時、爆心地から約5.5キロ離れた西彼福田村手熊郷(当時)の手熊国民学校で被爆。「目を射るような閃光(せんこう)の後、台風のような爆風が来た」。校庭で遊んでいた濵田さんは腹ばいになり衝撃をしのいだ。周囲の家のガラスが割れたり瓦が落ちたりしていて、原爆の恐ろしさを子ども心に刻んだ。
 市内の洋服店で働いていた40代の頃、腰に痛みを感じた。原爆の後遺症による機能障害。母に紹介された友愛会の支援を受けて被爆者健康手帳を取得し、自らも入会した。2019年、副会長に就任。被爆者5団体の一つとして、国の指定地域外で長崎原爆に遭い被爆者と認められていない「被爆体験者」の救済などに特に力を入れた。
 しかし友愛会は会員の高齢化や減少で活動が困難となり、核廃絶や体験者救済が道半ばのまま、今年3月末で解散した。その後も濵田さんは個人での活動を続け、平和公園で毎月開かれる「反核9の日座り込み」に参加するなどしてきた。
 ただ、組織の肩書を失った中で、首相らへの要望などは難しく「一人では何もできないのか」と悩むこともある。それでも体が動く限り、活動を止めるつもりはない。「核廃絶、そして核兵器を使う戦争自体をなくさなければ」。被爆者の一人として、これからもできることを探していく。


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