「戦争を知っているから 怖さは分かる」森幸子さん(84) 帰還した父の姿に終戦を実感

「戦争の怖さは分かる」と語る森さん=長崎市浜平2丁目

 80年近くの歳月が流れても鮮明に覚えているのが、自宅近くの田んぼに爆弾が落ちた時の破裂音と地響き。小学校の帰り道だった。怖くて、ただただ震えていた。
 長崎県大村市三城町で生まれた。空襲が激しさを増した第2次大戦末期は母と兄、妹の4人暮らし。左官だった父尾崎邦治さんは1943年ごろに動員され、フィリピンのマニラへ出征していた。
 当時主食はイモ。今のようにおいしくはなく、葉っぱもあくが強く苦かった。イモを煮たものを母が取り分け、体格のいい兄から与えていた。他には海岸で取ったアサリやハマグリ。「みんな同じようにひもじかった」
 たまに食卓に出る米が楽しみだった。母が朝早くから、千綿村(現在の東彼東彼杵町)の親類の家へ行き、着物と交換で調達してきた。自宅に風呂はなく、近所によく「もらい湯」に行った。今の若い人にはあまり想像できない生活かもしれない。
 45年4月、大村市の三城国民学校(現在の市立三城小)に入学。上空から目立たないよういつも黒色の服にランドセルだった。空襲警報が鳴ればすぐに帰宅。学校で教師からまっすぐ帰るよう口酸っぱく言われ、爆弾が落ちた時の地面のはい方も習った。
 長崎に原爆が投下された8月9日、近所の竹やぶで妹と遊んでいると突然ピカッと空が光った。「何だろう」。不安になって丘へ駆け上ると、長崎市の方向に大きなきのこ雲が見えた。
 戦時中、祖父は、旧日本軍が各地で勝利を収めたという新聞情報をわが事のように自慢げに話していたが、「米国とは国力に圧倒的な差があるのに…」「これだけ物が足りていないのに勝っているわけがない」と半信半疑だった。だから、母から戦争が終わったと知らされた時も特段驚きはなかった。
 46年、父が帰還。健康で戻ったことが何よりうれしかった。久しぶりに顔を合わせ「戦争が終わったんだ」とようやく実感できた。戦地でヘビを食べていたことなどを教えてくれ、時間があれば映画館に連れて行ってくれた父。72年に60歳で永眠した。
 市立大村中、県立大村高を卒業後、旧国鉄のキオスクに就職。31年間勤めた。20歳の時に結婚。父の戦友が夫の父の友人だった縁で結ばれた。「戦争がなければこの人とも出会っていなかった」。その後、長崎市へ移住し、2人の子どもに恵まれた。
 今、テレビで流れる戦争の映像に胸が痛む。「爆弾の音は怖いだろう。今日もどこかで涙を流す子どもたちがいるのだろう」。不意に耳をつんざくような爆弾の音がよみがえる。「戦争を知っているから、その怖さは分かる」。話せるうちに若い世代に伝えていかなければと感じている。

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