針尾送信所 4本線で結ばれていた 米公文書館所蔵写真で確認 発信の詳細解明へ期待

古写真の一部を拡大した写真。右上に写る黒い点が絶縁体の「碍子」。送信所頂上にある「かんざし」から碍子に向けて、空中にアンテナが伸びている(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

 長崎県佐世保市針尾中町にある旧佐世保無線電信所(通称・針尾送信所)は戦時中など使用当時、空中に三つの塔を結ぶアンテナ(空中線)を張っていた。アンテナは1947年に撤去。資料がほとんど残っていないため詳細は不明だったが、米国立公文書館所蔵の古写真に、無線塔とアンテナの一部が写り、各塔を4本線で結んでいたことが分かった。調査した市教委文化財課の川内野篤係長(44)は「当時の状況が分かる貴重な写真」と強調する。
 古写真は3年前、地元テレビ局が同公文書館からデータを入手。寄贈を受けた長崎市の長崎平和推進協会・写真資料調査部会が昨年4月、佐世保に関する写真データ約1600枚を佐世保市に提供。このうち3枚にアンテナが撤去される前の無線塔が写っていた。撮影日は、45年10月12日と11月10日。旧日本軍の武装解除に伴う査察などの際に撮影したと見られる。うち一枚は針尾瀬戸から撮影していた。

針尾瀬戸から撮影した針尾送信所の写真。英語で「日本の無線局」と説明が記されている(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

 アンテナを巡っては、終戦当時に無線塔で勤務していた人の手記に、アンテナの張り方を示す「琴型4条」と記載されていただけで、詳細は不明。本数など具体的な張り方は「想像に頼るしかなかった」(同課)。古写真を元に「具体的な設置状況がほぼはっきりした」という。
 無線塔の頂上には「かんざし」と呼ばれる正三角形の鋼材があった。かんざしからアンテナが伸び、その途中に設置していた絶縁体「碍子(がいし)」四つが写っていた。写真の碍子から、三つある塔のうち、少なくとも▽1号塔-3号塔▽3号塔-2号塔を4本の線で結んでいたと判明した。太平洋戦争の際に暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を送信したともいわれている。その際の状態は不明だが、完成当時は全塔を同様に結んでいたと思われる。

針尾無線塔に設置していたアンテナ

 川内野係長は「現在も残る無線塔は、あくまで支柱。余生の姿」とした上で、今後は「アンテナを使ってどのように発信していたかが重要。電気や無線の専門家が調査すると、より詳細な情報が分かるかもしれない」と期待を込めた。


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