淳が命を奪われた真相は…記録廃棄に打ち砕かれた期待 神戸連続児童殺傷26年、土師守さん最後の望み

事件で失った次男、淳君への思いを語る土師守さん=神戸市中央区、神戸新聞社(撮影・中西幸大)

 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で小学6年の土師淳君=当時(11)=が命を奪われてから、24日で26年となる。事件から18年後の2015年、逮捕当時「少年A」と呼ばれた加害男性が突如手記を出版し、昨年秋には事件に関する全ての事件記録の廃棄が判明した。そのたびに憤りをこらえてきた父親の守さん(67)は神戸新聞の取材に「もうこれぐらいにしてほしい。静かな余生を過ごさせてほしい」と心境を語った。

憤り、むなしさ、切なさ

 何年たっても子どもに対する気持ちは変わらない。白髪になり、孫も誕生した。しかし、歳月を重ねても、淳君は11歳の姿のまま。思い浮かべるのは怒ったり、笑ったりと豊かだった表情だ。「普通の生活というのは本当に幸せだったんだな、と」

 なぜ、息子は命を奪われなければならなかったのか。26年を経ても、納得できる答えは見つからない中で、神戸家裁による事件記録の廃棄が明らかになった。

 当時の少年法では、事件の遺族であっても当時14歳で逮捕された加害男性に関する事件記録を見られなかった。その後の法改正で被害者遺族は記録の一部が見られるようになったが、改正法はさかのぼって適用されず、連続児童殺傷事件の記録の閲覧は今もかなわない。

 廃棄された記録は「(息子の)最期を残す重要な記録」だったと言う。「記録さえ残っていれば、法改正で見られるようになるのではないか」。記録の廃棄を知ったとき、わずかな期待が打ち砕かれ、憤りやむなしさ、切なさといった感情がない交ぜとなった。

 「加害男性の弁護人や関係者らが事件記録に関する資料を残していれば話してほしいが、可能性は低いだろう」。記録が失われ、事件の真相を知る手段は、加害男性からの手紙のみとなってしまったと思う。

淳のことを思い続ける

 その加害男性の手紙は2017年を最後に途絶えた。手紙は決して「償い」にはならないが、男性が自分や事件に向き合うためには必要な行為と考えている。事件の「なぜ」に迫れるかもしれない。だからこそ「(男性には)自分がした行為を考え、きちんと説明してほしい」と強く望んでいる。

 犯罪被害に遭う人が自分たちと同じ思いをしてほしくないと考え、犯罪被害者や遺族を支える法の整備や環境の改善に力を尽くしてきた。しかし、家族が被害者となってしまい、学校に通えなくなった子らへの支援は進んでいないと感じる。

 97年の事件当時、学校に行けなくなった淳君の兄のため、家庭教師を依頼した。わが子の学びの場を自ら設けた経験を振り返り、「事件で教育を受ける権利が侵害される。対策は絶対に必要だ」と力を込める。

 「亡くなった子どものことを思い続ける。われわれ家族が息子のためにできる一番重要なこと」と語る土師さん。事件後もさまざまな問題が生じてきたが、前を向いて歩んできた。「他の人もそうだと思う。そうしなかったら生きていけないじゃないですか」と静かに語った。(篠原拓真)

 【神戸連続児童殺傷事件】1997年2~5月、神戸市須磨区の住宅街で小学生5人が次々と襲われた事件。3月16日に小学4年の山下彩花ちゃん=当時(10)=が金づちで殴られ1週間後に死亡、5月24日に小学6年の土師淳君=同(11)=が殺害された。当時中学3年で14歳だった「少年A」が殺人などの容疑で逮捕された。成人となった加害男性は2005年に関東医療少年院を退院。遺族に04年から手紙を寄せたが、15年に無断で手記「絶歌」を出版した。事件は、刑罰の対象年齢を引き下げる少年法改正の契機となり、兵庫県では心の教育を見直そうと、98年から中学2年での職場体験学習「トライやる・ウィーク」が始まった。

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