江戸期の五街道の一つ「日光街道」。多くの宿場が生まれ、街道を発端に地域経済が形成された。鉄道、道路。時代とともに利便性を増す交通インフラは観光客を呼び寄せ、日光を現在の「国際観光都市」の地位に押し上げた。
1885(明治18)年、東北本線が宇都宮まで延びると、日光を訪れる人が増加し、90(同23)年には日光鉄道(現日光線)が開業した。
1908(同41)年には日光町と古河鉱業が、日光駅から男体山麓の馬返までを結ぶ「日光電気軌道」を創立。物資輸送が主だったが、徐々に旅客が伸びた。
「客が最も多かったのは昭和28年製の100型への切り替えの頃。東武日光駅に着くと乗り換えのため早く降りたい客であふれ、運賃を集める業務が追い付かなかった」。当時を知る元社員は振り返る。馬返と明智平を結ぶケーブルカーも運行され、首都圏から奥日光に至る観光ルートが確立された。ケーブルカーは最盛期で236万人が利用した。
54(昭和29)年に第一いろは坂、65年に第二いろは坂が開通すると、バスやマイカーが主流となり、68(同43)年に日光軌道、70(同45年)にケーブルカーが廃止。76年には日光宇都宮道が開通。県道路公社が管轄するようになった2005年以降、毎年800万~900万台が利用している。
今年7月には東武鉄道が33年ぶりとなる新型特急を投入。日光路の旅は快適さを増す。
一方で「交通インフラの発達で日帰り圏になった」とある老舗ホテルの関係者は宿泊客の減少を嘆く。利便性向上の陰で新たな悩みも生まれている。