おなじみ「力餅食堂」、発祥の地・但馬では独特の変遷 とち餅、ラーメン、ハンバーガー店などに

「とち餅本舗」の(右から)上坂勇さん、幸子さん夫妻と、営業担当の佐藤稔さん=豊岡市日高町荒川

 10月に2回続きで紹介した大衆食堂「力餅食堂」。京阪神や兵庫県の播磨などでおなじみですが、発祥の地・但馬にも、驚きの歴史と不思議な変遷をたどった店がありました。今回は番外編として、都市部ではなく、但馬で店を開いた人たちの足跡をたどります。(阿部江利)

■日高「とち餅本舗」 工事での立ち退きを機に

 道の駅「神鍋高原」(同県豊岡市日高町栗栖野)に「ほんまもんかんなべ」という名のとち餅がある。昔から地元で食べられているという甘すぎない味が特徴で、不動の売り上げトップを誇る名物だ。毎朝5時から、あんこをへらで包んで一つ一つ手作りする。ここでしか買えず、日持ちもしない。実は「ほんまもん」の誕生の背景にも、あの「力餅食堂」があった。

 餅を手がける「とち餅本舗」(同町荒川)は、JR江原駅に近い国道312号沿いにあった食堂がルーツだ。2代目の上坂勇さん(85)によると、初代松太郎さんは、創業者の池口力造氏がいた京都本店で修業。1938(昭和13)年に食堂を開いた。

 円山川の堤防工事で立ち退く必要が出たことから、食堂は移転し、菓子中心の店になった。当時は列車を利用したスキー客であふれ、「神鍋に来たら土産はとち餅」と人気を集めるようになる。78年に同駅前に「サンロード商店街」ができたのに合わせ、同商店街内に菓子店を開いた。餅の売り上げが伸びる中、95年に現在の店名に変えた。

 「ほんまもんかんなべ」は2002年、日高-村岡間を結ぶ蘇武トンネルの開通に先立ち、勇さんが道の駅の担当者と「ほんまもんの餅を作ろうや」と本気で開発した自信作だ。以前からとち餅を作っていたが、圧倒的に売り上げが増えたという。

 勇さんの弟文雄さん(76)も大阪の力餅食堂で修業し、帰郷して日高町宵田に「茶房ちから餅」を開いた。亡くなった妻郁代さんと二人三脚で半世紀、店を切り盛りし、今もコーヒーとラーメンの店として、常連客の憩いの場となっている。

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 22年、とち餅本舗の代表には3代目の上坂晃太郎さん(58)が就いた。晃太郎さんは大学を卒業後に家業を継ぐために帰郷。バブル景気の真っ最中だった1987年、同商店街の菓子店横で、但馬初だったというハンバーガーショップ「バーガーシティ」を開いた。同ショップは98年にチェーン本部が倒産。かつて但馬にも10店舗近くがあったが、数年前にとうとう全国最後の1店になった。

 以来、店を懐かしむ客らの訪れが増え、忙しくなっている。一方で父から餅作りを学ぶため、10年ほど前からは午前5時から餅を仕込み、同11時からバーガーショップの店頭に立つ生活を続けてきた。「子どものころから祖父が餅を包む姿を見て育ち、餅は暮らしそのものだった」と懐かしむ。

 バーガーシティには数十種類のオリジナルメニューがあり、同社でハンバーガー専用に加工した餅入りの「とちの実バーガー」も出す。食堂は、地域の歴史とともに息づいている。

■城崎「力餅」 「昔ながら」で店守り続け

 豊岡市の城崎温泉街、四所神社の近くに店を構える「力餅」は、大阪・天神橋筋2丁目で在阪の1号店を開いた松本菊太郎さんに弟子入りした初代松本明(故人)さんが、空襲を避けて但馬に疎開し、1949年に開いた店だ。力餅食堂の本店などで使われる「福島鰹(がつお)」「矢木醤油(しょうゆ)」を今も使い、城崎の食材を取り入れながら店の味を守り続けてきた。

 通りに面した場所にはショーケースが置かれており、餅や赤飯と並び、人気商品の一つ「元祖城崎ソフトクリーム」の看板が目を引く。同店によると、日本で初めてコーンに盛り付けるソフトクリームが出されたのが51年。先代の明さんは4年後に城崎温泉街で販売を始め、以来68年間、秘伝のバニラ味一筋で勝負してきた。赤飯も、2022年に103歳で亡くなった明さんの妻英伊さんのレシピで、長らく「力餅のおばあちゃん」の味として親しまれたという。

 現在は3代目の和也さん(45)、昌代さん(39)夫妻が店を切り盛りする。観光客らの利用も多く、最近では座席が訪日客(インバウンド)で埋まることもある。甘味の店頭販売は午前9時から、食堂は同11時から始め、午後10時まで営業する。昌代さんは「温泉街で店を営む以上、夜も明るく電気を付けておくように代々聞いてきた。昔ながらを売りにして、これからも商売を続けたい」と話す。

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