「全ては上達のためのプロセスだから」大坂なおみがシフィオンテクに敗れてなお自分を誇りに思う理由【全仏オープン】<SMASH>

イガ・シフィオンテク対大坂なおみ――。

全仏オープンテニス2回戦で実現したこのカードは、恐らくは早期に実現する顔合わせの中で、ファンや関係者たちが最も心待ちにした試合の一つだったろう。

だが実際にはどれだけの人が、大坂の勝利の可能性を信じただろうか? シフィオンテクは、全仏オープン2連覇中の女王。しかも今年は、マドリード、そしてローマの前哨戦2大会を制し、連勝街道を疾走したままパリに凱旋してきたのだ。

対する大坂は昨年7月の出産を経て、今年1月に復帰したばかり。戦うたびに調子を上げているのは間違いないが、それでも、現女王には届かないというのが、大方の見解だったろう。

もちろん、「勝てると心から信じて、試合に向かった」と明言する、大坂本人を除いては……。

いずれもグランドスラム4度の優勝を誇る新旧女王の、過去の戦績は1勝1敗。初対戦は2019年夏のカナダで、当時は大坂が大会第2シード。シフィオンテクは、大坂を「セレブ!」と仰ぎ見る18歳だった。

2度目は、22年3月マイアミ・オープンの決勝戦。その時点で既に世界1位が確定していた新女王は、大坂を6-4、6-0で圧倒した。

それから2年。アスリートにとっての2年は、多くを変えるのに十分な年月だろう。

シフィオンテクは昨シーズン末に、サービスの改善に集中的に取り組んできた。「技術面を変えたことで、スピードが上がった。同時に打てる球種が増えたことで、配球も良くなった」

本人がそう自信を深めるサービスの向上は、確かに速度という最もわかりやすい形で顕在化する。今大会の初戦では、最速191キロを記録。試合を通しても、平均177キロの高い数字を保った。
対する大坂が、産後から復帰に向け、最も強化に力を入れたのがリターンである。

以前の大坂は、足を前後に広げて構え、走るように相手サービスへと向かっていた。それが今は、両足を肩幅ほどに広げ、小刻みにスプリットステップを踏みながらポジションを微調整する。

大坂いわく、お手本は「ジョコビッチ」。言わずとしれた男子世界1位にして、リターンの名手だ。

「知り合いのバイオメカニクス(生体力学)の専門家にも相談し、なおみのリターンの動きを分析してもった」と明かすコーチのウィム・フィセッテは、改良の眼目を「スプリットステップをしっかり踏むことで、反応を早めること」にあると言った。

反応が早まれば、リターンポジションを上げて打ち返し、相手の時間を奪うことができる。それが復帰以来、大坂が磨いてきたリターンだ。

第1セットは両者の新たな武器が鍔迫り合いを繰り広げ、シフィオンテクがタイブレークを制し7-6で先取。

だが第2セットでは、大坂がシフィオンテクのサービスを捕らえた。時にベースラインの1メートルほど内側に立って構え、世界1位に圧力をかける。それ以上に効果的だったのが、バックサイドに来るサービスのコースを読み切り、フォアに回って叩き込むリターン。
まだ、改善中のフォームが身体になじみきっていないシフィオンテクがナーバスになっていることは、屋根が閉まり無風に近いにもかかわらず、幾度もトスをやり直す姿に見て取れる。シフィオンテクのサービスゲームを、3度ブレークした大坂が第2セットを6-1で奪取。最後のポイントも、大坂の深いリターンを、焦って叩きにいったシフィオンテクのミスだった。

第3セットも、大坂の勢いは止まらない。ブレークポイントを凌ぎ第最初のゲームをキープすると、続くゲームでも炎のリターン連発でブレーク。そのリードを維持したまま、5-3で大坂のサービスゲーム。勝利は、目の前に迫った。

だがこのゲームで大坂は、今までになかった幾つかのミスを犯す。30-15の場面では、サービスで崩しオープンコート目がけ放ったショットを、ネットにかけた。

最初のブレークポイントは凌ぎ、会心のウイナーでマッチポイントに至るも、続くポイントでは、シフィオンテクのリターンに押されバックハンドをネットにかける。最後もバックハンドが長くなり、土壇場でブレークを許した。

直後の、シフィオンテクのサービスゲーム。大坂はデュースにまで持ち込むが、ブレークするには至らない。続く自身のサービスゲームは、ダブルフォールトでブレークを許した。

そうして、試合開始から2時間57分――。大坂のバックのクロスがラインを割り、死闘に終止符が打たれる。シフィオンテクとハグを交わし、淡々とバッグを担ぎ出口に向かう彼女は、湧き上がる大歓声に手を振り応えて、センターコートを後にした。
勝利を目前にしながら、相手に5ゲーム連取を許し逆転での敗戦。

その結末だけを聞くと、プレッシャーや高まる勝利への意識が、彼女の手元を狂わせたと思うかもしれない。だが、そうではなかった。

試合後の会見での彼女は、終盤の展開をさほど覚えていないほどに、「1ポイントごとに集中していた」と言った。

「私、マッチポイントがあったかすら、覚えていないんだけれど……」

そう言い大坂が、首を傾げる。記者席からの「あったよ」との声を聞くと、彼女は苦笑いを浮かべて、チャーミングに言った。

「あったの? ……もーう、最低!」

改善中のリターンは、第2セットでは62%の高いポイント獲得率を記録し、特に相手のセカンドサービスでは90%、11本中10本をポイントにつなげた。だが第3セットではその数字は、50%に下がる。

「もっと大きく前に踏み込めば、もっとうまくいったのではと思う局面が、何度かあった」と、後に大坂は振り返った。恐らくは、シフィオンテクが「あのゲームを境に、私の中のスイッチが切り替わった」と振り返る5-2でのゲーム、あるいは5-4でのリターンゲームも、そのような「局面」だったかもしれない。

ただ大坂の声色や表情には、悔いの色はない。

「だって全ては、上達のためのプロセスだから」。そう言い彼女は、柔らかく笑った。

大坂は最近、試合前後や試合中にも、思いついたことをノートに書き止めるようにし始めた。この試合の後、彼女はそのノートに、自身に向けてこんな言葉を書き残したという。

「あなたを、誇りに思う」……と。

現地取材・文●内田暁

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