特殊な自然環境が息づく「アヴィック山自然公園」の登山道を1泊2日で歩き尽くす【ブーツの国の街角で】

アルプスの名峰が集うヴァッレ・ダオスタ州が最初に州立自然公園として保護区に指定したアヴィック山自然公園(Parco Naturale Mont Avic)。5,700ヘクタール超の保護区域には、ここでしか見られない特殊な自然環境が息づいている

モンブランやマッターホルンを擁するヴァッレ・ダオスタ州は、言わずと知れたアルプス歩きの聖地だが、あまりに広大なテリトリーゆえ、まだまだ知られていない絶景ルートもたくさんある。これまでにマッターホルンやモンブラン、グラン・パラディーゾ、モンテ・ローザの有名な登山ルートを歩いてきた私だが、実はそんな王道以上に記憶に残っている素晴らしい登山ルートがある。

森や湖、岩場、緑の平野と雪山の絶景が目まぐるしく登場するバラエティ豊かなアヴィック山の登山道は、一度歩くとその楽しさに取り憑かれる魅力を備えている。今回は、まだあまり知られていないが、山好きなら誰でも気に入ること間違いなしの登山道をご紹介しよう。

■2つの渓谷の合間に広がる独特な自然環境

アヴィック山自然公園は、グラン・パラディーゾ国立公園に隣接し、シャンポルシェ渓谷とシャンデプラツ渓谷という2つの渓谷の間に広がっている。総面積は5,700ヘクタールを超え、周囲を3,006mのアヴィック山、2,936mのイベルタ山、さらには3,185m地点に広がる氷河といった高い峰々によって囲まれている。

園内には100kmを超える登山道が延び、森林や小川、滝、湖など大自然の素晴らしい景観を眺めながら飽きることなく歩くことができる。特異な自然環境とそれを手厚く保護してきたこの公園内にはさまざまな高山植物や野生動物も生息しており、山歩きの楽しさに一層の彩りを添えてくれる。

今回は、シャンデプラツ渓谷側の標高1,298m地点にあるヴェウーラ村からルート5Cに入り、セルヴァ湖を経由して、標高2,200mの山小屋バルブステルで1泊。翌日はバルブステル小屋周辺に点在する4つの湖を制覇して、反対側のシャンポルシェ渓谷に降りてくる、というルートをとった。

■イタリアで最も重要な「種子林」に指定された松林

涼しい木陰の登山ルートを快適に歩いて行くと、登山道の両脇にブルーベリーやラズベリーなど野生のベリー類がたわわに実っているのを見つけた。自然と手が伸び、ラズベリーの実を1つ摘んで冷たい小川の水で洗い流し、口に放り込む。フレッシュな甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、なんとも言えない幸福感に包まれる。

さらに道を進んで行くと、今度は道端の草花に群がる色とりどりの蝶々に出会った。なんでもこのエリアには1,100種類に及ぶ蝶と、少なくとも110種の多様な甲虫が生息しているのだそうだ。写真を撮っていると、1匹の蝶がひらひらと飛んできて私の帽子の上に停まった。小さな虫たちも安心して生きられる環境がしっかりと守られているんだな、と実感する。

昆虫類や野生動物はもちろんだが、このエリアでは植物も厳格に保護されている。イタリアのアルプスでは針葉樹の森を見ることは珍しいが、このアヴィック山には「ウンチナータ」と呼ばれる独特なアルプスの松が生息しており、国の重要「種子林」として守られている。日本ではモンタナマツと呼ばれているこの松は、硬くて大きな岩場の隙間で成長し、根の部分が独特なカーブを描いているものもある。険しい岩だらけの崖にしがみつくように生えている松の木の姿は、ここでしか見られない自然風景だ。

■珍しい水草や苔に彩られたセルヴァ湖

いくつもの絶景ポイントで休憩を挟みつつ、針葉樹の森と岩だらけの崖を通り抜けて、ようやく第1日目の中間地点であるセルヴァ湖に着いた。小さな湖は湿地帯の影響を受けているらしく、びっしりと湖面を覆った小さな真っ白な水草の花がキラキラと輝きを放っている。岩場には何種類もの珍しい形の苔が生え、岩だらけの何処か殺伐とした景色に彩りを添えている。

座り心地の良さそうな岩を見つけて、ここでランチタイム。持参したパンとチーズ、サラミ、りんごをゆっくり味わいつつ、この素晴らしい空間を思う存分楽しむ。食後はちょっと昼寝をしていくか、と思った矢先、にわかに空が暗くなってきた。ついさっきまで青空が出ていたのに、これはちょっと雲行きが怪しくなってきた。目指す今夜の山小屋までは、まだまだ距離も標高差もある。天気が崩れると大変なので、慌てて荷物を片付け、歩き出すことにした。

■握り拳大のヒョウが叩きつけるアルプスのゲリラ豪雨に遭遇

山の天気は変わりやすい、とは知ってはいたが、ここまで劇的な天候の急変を体験したのは初めてだった。セルヴァ湖を慌ただしく後にし、だんだんと分厚くなってくる黒い雲を見上げながら早足で山小屋を目指す。

標高2,000mを超えて少しづつ大きな木がなくなっていき、岩場や洞窟もすっかり姿を消したところでものすごい雷鳴が響き渡った。頭のすぐ上で鳴っているような音に思わず体がすくむ。これはまずい。どこか身を隠す岩陰はないか、と周囲を見渡したものの、隠れられそうな場所はどこにもなく、緑の野原が広がっているのみ。そうこうしているうちに、今度は猛烈な豪雨になり、ポンチョを着るまでのわずかな時間に突然握り拳大のヒョウが腕を叩きつけてきた。こんなのが頭を直撃したら気絶してしまう、とリュックで頭を保護し、近くにあった低木の下に身を折るようにしてかがみ込んだ。早く過ぎ去って欲しい、という願いとは裏腹に、今度はかがみ込んだ低木のすぐ脇を流れる小川が川幅を広げ、まるで滝のような大量の水が流れ出してきた。

文字通り生きた心地がしない時間を15分から20分ほど過ごしただろうか。ヒョウが止んだのを機に、思い切って土砂降りの中を歩き出した。ここでしゃがんでいても仕方がない。とにかく一歩でも山小屋に近づきたい一心で足を進めた。

滝のような雨に目の前を遮られ、右も左もわからない状況でひたすら足元の道らしき場所を見つめながら2時間以上歩いただろうか。ようやく山小屋の影が見えた時は、思わず「助かった!」と声が出た。こんな土砂降りの中を歩いてくる登山客はもういないと思ったのか、山小屋の扉はしっかり鍵がかかっていた。絶望的な気分でノックをし続けていると、ようやく扉が開いた。

「おやまぁ! 滝壺にでも落ちたんかい?」と笑いながら山小屋のご主人が迎え入れてくれた直後、全身から力が抜けた。と同時にどうやら雨も止んだようだった。運悪く豪雨のピーク時に山歩きをする羽目に陥ったようだったが、とにかく危機を脱したことが何より大事。その夜、山小屋で食べたあったかい猪の煮込み肉の味は、生涯忘れられないものになった。

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