「これからの時代はバレーボールの楽しさや魅力を一番に感じてプレーしてほしい」元バレーボール女子日本代表・狩野舞子が見つけたバレーボールの楽しさと競技生活を支えた食習慣

明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は2012年ロンドン五輪にバレーボール女子日本代表の一員として参戦し、現在は解説やイベントなどでバレーボール普及に携わる狩野舞子さんが登場。バレーボールを始めたきっかけや代表入りの経緯、イタリア・トルコでの海外挑戦、ロンドン五輪での経験、引退後の活動、今後の目標、アスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。

――お父さんが元実業団のバレーボール選手、お母さんが八王子実践高校から東京女子体育大学に進んだバレーボール選手で、11歳年上の2番目の姉・美雪さんも久光製薬時代の先輩という「バレーボール一家」だったんですね。

そうなんです。上の姉だけはバレーボールをやらずに、美術系の道に進みました。自分は末っ子で、姉たちとも歳が離れていたので、母親が3人いたような感じかな(笑)。私自身は記憶がありませんが、姉2人もオムツを替えてくれたり、一緒に育児をしてくれたと聞いています。

――そういう環境だと、幼少期からバレーボールとの接点は多いですね。

赤ちゃんの頃からママさんバレーボールに参加する母親に抱きかかえられて体育館に行っていたので、そこでボール遊びをするような子だったようです。姉の応援にもよく行っていましたし、バレーボールが生活の一部になっていたのは確かです。本格的に始めたのは、通っていた三鷹市大沢小学校のスポーツクラブに入った小学4年生の時なのですが、それもごく自然の流れだったと思います。

――姉・美雪さんの背中を追いかけたところもありますか?

そうですね。姉のことは小さい時から見ていますが「努力の人」。中学からバレーボールを始めて、高校、大学、実業団と歩みを続けて、着実に力をつけていって日本代表に選ばれるようななった選手なんです。根性もすごくあったし、いつもスゴイと感じていました。尊敬する人を聞かれると、いつも姉と答えていたくらい。そういう姉と一緒にプレーしたくて、久光を選んだのもありますね。
――久光製薬入りの少し前になりますが、八王子実践中学時代には3年生で日本代表候補に選ばれています。当時は「中田久美以来の中学生代表」と言われ、大いに注目されました。

中田久美さんと並べてもらうのがホントに申し訳ないくらい、比べ物にならない選手だなと感じていました。私の時は期待を込めての選出だったし、代表合宿に行った時も『ここにいていいんだろうか…』と疑問を感じて、早く帰りたいとばかり思っていました。

――アテネ五輪の日本代表はキャプテンが吉原知子さん(JT監督)、セッターが竹下佳江さん(姫路エグゼクティブ・アドバイザー)で、若手の栗原恵さん、大山加奈さん、木村沙織さんもいましたね。

はい。吉原さんや佐々木みきさん、竹下さんといった上の人たちが率先して引っ張るようなチームでした。先輩たちが一番早く来て朝練して、居残りも遅くまでやっていたので、若いメンバーはついていくのが必死。15歳の自分もそうだったので、そこまで鮮明な記憶がないんです。本当にスゴかったですね、あの時代は(苦笑)。

――アテネ五輪メンバーには選ばれず、八王子実践高校を経て、2007年に久光入りします。当時、指揮を執っていたのが、現日本代表の眞鍋政義監督でした。

眞鍋監督の第一印象は「愉快な人」。「女子のチームは初めて」と言っていましたけど、すごくコミュニケーションが上手だし、選手に好かれる監督だなと感じました。

一方でバレーボールになると物凄くシビアでした。常にデータを厳しくチェックされていて、前の試合の返球率やスパイク成功率などのデータを全部張り出すこともあり、結果の世界なんだと痛感させられました。「やっぱりデータのいい選手から使われるんだな」と久光に入ってすぐに思いました。

――当時の自分は何が足りなかった?

全部ですね。高校3年生の時に練習参加した際も「全然、レベルが違う」って思いました。入社後は腰に痛みがあり、ずっと別メニューでトレーニングしていたんですが、ボール練習に入れるようになってからも、スピードもパワーも何もかも違った。「みんなと同じ練習だけじゃついていけない」と感じて、自主練をだいぶやるようになりました。でも、そうなるとまたケガをしてしまう。はやる気持ちと調整の難しさに戸惑った実業団1年目でした。
――2008年2月の右足アキレス腱断裂はダメージが大きかったでしょうね。

そうですね。まず筋肉が全部落ちてしまうので、ひざ下が腕かと思うくらい細くなってしまいました。日常生活も思うようにならないので本当に落ち込むことが多かったです。

バレーボールはジャンプの競技なのに、飛ぶという動作も忘れてしまう。踏み切りも落下にしても、恐怖の連続でした。それを乗り越えてから、元の自分に戻すためのリハビリが本格化していくのですが、孤独だし、毎日同じメニューだし、どうしてもネガティブになってしまうんです。

そんな時、眞鍋監督から「ムリヤリにでもポジティブに考えるようにしろ」と言われました。「いやいや、この状況じゃムリ」とは思いましたけど、「今でよかった」と。「あと1年、2年遅かったら、2012年のロンドン五輪に間に合ってないぞ」とも言われて、「なるほどな」と前向きになれました。

起きたことを悔やんでもしょうがないから、プラスに考えて、次に生かすことの大切さを眞鍋監督から学ばせてもらいました。家族もチームメートも私を落ち込ませないように明るく接してくれましたし、そのおかげで復帰が早く感じられました。復帰できた時は本当に嬉しかったです。

――辛かった時間をどう乗り越えました?

好きな音楽をガンガンかけて歌っていました(笑)。「Mr.Children」が大好きなので、もうとにかくミスチルをずっと聞いて泣くという感じでした。人生を救われた瞬間は何度もありました。

――2010年1月に左アキレス腱断裂という2度目の重傷を負い、そこから復帰して、すぐにイタリア行きに踏み切りました。

まだ2回目の大ケガが完治していないうちにイタリア行きを決めました。「ロンドン五輪まであと2年」って考えた時に「このまま同じ状況にいていいのかな」と思い、まだリハビリ期間ではありましたが、環境変えたかったし、2年後の五輪を視野に入れて、外国人選手との対戦機会を増やしておきたいと思い、思い切って外に出ました。

写真:(C)SPORTS BIZ

――ご自身の変化は?

いい意味で外国ナイズされたというか、帰ってから『外国人っぽくなったね』ってまず言われました(笑)。細かいことを気にしなくなったというのかな。
やっぱり海外に行くと、日本の常識とは違うことが頻繁に起こります。練習時間や方法、生活など全てそうなんです。思い通りに行かない時、私は苛立つんじゃなくて、笑っちゃうようにしたんです。「これ、ウケる」って考えるようにしたというか。それですごくおおらかになった気がします。

日本にいた頃は周りを気にして神経質になったり、どうにもならないことを家で考えたり悩んだりしがちだったので、いい意味で周りを気にしなくなったし、自分らしさが出てきたのかなと思います。

――バレーボールに関してはどうですか?

シーズン通して大きな選手、パワーのある選手の球を受け続けたことは、間違いなくその後の代表活動に生きたと思います。

トルコでは、サッカーで有名なベシクタシュというチームに所属していました。サッカーは凄まじい人気でしたし、バスケットボールチームもあったり、いろんな競技が同じクラブにあるのがプロのチームだと感じましたし、自分もそのベシクタシュを担っている一員だと思えて楽しかった。スポーツを通して熱狂的になる国民性からも学ぶことは多かったです。
――貴重な国際経験を武器に、ロンドン五輪メンバー入りを果たし、日本の28年ぶりのメダル獲得にも貢献できました。

大会前に竹下さんがケガをして、不安もありましたし、チームとしてとても調子がよかったわけではなく、まずは目の前の試合を1つ1つ勝っていこうという気持ちでした。ですが、準々決勝の中国戦を前に、チームの状態も上がってきて「いけるんじゃないか」とみんなで話をしていました。中国にはそのシーズン、一度も勝ったことがなかったと思いますが、このチームなら勝てるという自信をみんなが持っていたし、一体感もありました。

試合では、私は途中から入る役割で、中道瞳さんとのセットで2枚替えというのが多かったのですが、そこでなかなか活躍ができなくて。「私達、何もできてないね」と中道さんと落ち込んでいた時に、眞鍋さんから「2枚替えが機能してないのはお前たちだけじゃない。他のチームもそうだ」と言われて、少し周りの状況が見えるようになりました。
「気負いすぎずに、ここまで来たんだから思い切ってやりなさい」と練習から帰るワゴン車の中で声をかけてもらって、2人で号泣して吹っ切れて、それで挑んだ中国戦だったので、より前向きになれました。

――その中国に勝ち、準決勝でブラジルに敗れたものの、3位決定戦で韓国を下して、銅メダルを手にすることができました。

大会を通して私は全然得点を取れていなかったので、五輪が終わってからも「ホントに自分は貢献できたんだろうか」と疑問に感じることもありました。ですが、メンバー12人の中で自分に何ができるかを毎日考えて過ごしていたのは確かでした。
「チームが勝つために何をすべきなのか」と日々模索し続けたし、あれほどフォア・ザ・チームを脳裏に焼き付けたことはなかった。そういう意味では、どこかで自分を必要としてもらえたのかなと。そう思ってもらえたら嬉しいですね。

コートの外では、チームの盛り上げ役という役割を担当してる意識はありました。「ベンチが強いチームは勝てる」とも言われますが、控えメンバーがレギュラーと同じ気持ちでいられるかどうかはすごく大事。それをロンドン五輪で学ぶことができました。

写真:(C)SPORTS BIZ

――その後、久光に復帰し、セッター転向を決意しました。

五輪後にすぐ「セッターに転向しないか」と久美さんに勧められて、3シーズンやらせてもらいました。もともとアタッカーだった自分がすぐセッターなんてできるわけではないと分かっていましたが、期待に応えたい思いもあり、焦りもあって、、自分自身を物凄く追い詰めていたなと感じます。

セッターの3年間は、バレー人生の中でも一番、自分と向き合った時間だと思います。それくらい毎日毎日、バレーボールのことを考えて、思い詰めすぎて、バレーボールが嫌いになりそうだったんです。試合にもあまり出られず、「1回、バレーボール離れよう」と思って、いったんは競技をやめるという選択をしました。

――そこから復帰に至る過程は?

ずっとバレーボールから離れて生活していたんですが、「やっぱりバレーボールがすごく好きだな」とだんだん感じるようになったんです。実際、いろんなカテゴリーの試合も見に行っていました。「このままやめて後悔しないですか」と自分自身に問いかけた時に「いや、後悔するだろう」と思い、「最後はスパイカーやりたい」という気持ちも高まってきて、「1年間、ブランクあるけど、もう1回、一緒にスパイカーとして頑張ろう」と声をかけてくれたPFUブルーキャッツに行くことを決めました。

もちろん実戦復帰までの流れは簡単ではありませんでした。1年間、プレーしていないと体もなまるし、感覚もほぼない。もともとケガが多いので、まずはフィジカル強化を1から取り組んでいき、本当にしんどかったんですが、トレーナーの方と二人三脚で取り組んでいき、徐々に試合に出られる状態になりました。最後の2年間に栄養や体の改造といった部分に興味を持てたのもあって、引退直後にアスリートフードマイスターの資格を取ることにもつながりました。

――PFUでの最後の2年間は?

それまでの自分は心底、バレーボールを楽しんだことがなかった。「期待に応えたい」とか「誰かのため」といった感情が優先していました。でも最後は「自分自身がバレーボールという競技を楽しんで終わりたい」と強く思い、丸2年間、痛いところがありつつも「楽しいな」と心から思えた時間でした。最終的にはひざがダメで引退したんですが、後悔なく終えることができ、PFUブルーキャッツには本当に感謝していますね。
■食生活について

――狩野さんの現役時代の食生活は?

私もともと好き嫌いがすごく多くて、食事が楽しくなかったんです。でも「食事もトレーニング」だと思って食べるようにしていました。
食事自体をもっと楽しめていたら、競技につながるポジティブな影響もあったんだろうなと思うので、幼少期から好き嫌いをなくすように工夫することがすごく大事だと改めて感じます。私の場合は、親が「食べたくないんだったら仕方ない」というスタンスだったので、甘えてしまいましたね(笑)。

――狩野さんは何が嫌いなんですか?

野菜ですね。人参やカボチャ、ピーマンなど緑黄色野菜はあまり好きじゃないし、生野菜のサラダも「食べなくていい」と言われるなら食べないです。15歳から寮に入ったので、それまではホントに野菜を食べた記憶がありません。日本代表に選ばれてからは、合宿時に食べる順番があって、まずサラダ大盛りから入るんです。それが自分にとっては地獄(笑)!そこから一向に食が進まなくなっていました。

火が通っていれば野菜も食べられることに気づいてからは、温野菜とか蒸野菜、鍋物で摂るように心がけました。温野菜や蒸野菜なら好きなタレやドレッシングをかければおいしく食べられますし、鍋も大好き。今はドレッシングなどもいろんな種類が出ていますし、「自分がこういう食べ方だったら沢山の量を取れる」という方法を発見することが大事なのかなと思います。
――野菜に近い食材ですがきのこは食べますか?

きのこは大好きです。キノコの中ではマツタケだけが食べられないですが、しめじやえのき、エリンギなど全部好き。安上がりなタイプなんです。これまでキノコでビタミンを補っていたのかもしれませんね(笑)。

鍋を食べる時には、山ほどキノコを入れます。体によくて、ビタミン豊富で低カロリー、しかも満腹感があるということで、アスリートの強い味方です。代表のメンバーも好んで食べていました。

――きのこには腸内環境を整える効果と言われています。意識することはありますか?

私はもともとお腹がそんなに弱い方ではないので、腸内環境を整えるためにキノコを食べるということはしていませんでしたが、「今は高カロリーを摂りたくないな」「体を軽くしたいな」と思う時にはキノコを多めに食べるようにはしていました。

――引退後にはアスリートフードマイスターの資格も取られたそうですね。

現役を離れてから、各地でバレーボール教室を開いたり、普及活動に参加する中で、子供たちや親御さんに対しても栄養指導の機会があるんです。そういう場に何の知識もない状態で行くのは失礼だと思って、資格を取りました。

アスリートの食事管理というのは、自分自身がずっと経験してきたことで、それが正しかったのかどうかを再確認する意味でも、勉強するのはすごく良いことだなと思いました。
私のような野菜嫌いの子供でも、調理方法だったり、味付け、食材の組み合わせなどで結構食べられるようになる。「こういうアイディアもありますよ」とアドバイスできるのは大きいですし、実際に取り組んでもらえるのも嬉しいですね。

――狩野さんと同じく苦手な食材が多い子どもを持つも多いと思いますが、ご自身の経験から苦手を減らすための取り組み方はありますでしょうか?

「この野菜を食べると体のこういう部分にプラス効果があるんだよ」「役に立つ食べ物なんだよ」と知識も一緒に教えてもらえたら、もっと食べようと思ったのかもしれません。理由なく「これは食べないとダメ」「残しちゃダメ」と頭ごなしに言われると、子供はどうしても「嫌だ」となります。「絶対に食べたくない」と反発することも多いのではないでしょうか。自分自身もそういうところがあったので、反面教師にしないといけないなと感じますし、経験を生かしながら栄養指導をするようにしています。
――今後の目標は?

バレーボール界への恩返しをすることですね。今は日本代表の練習を見に行かせてもらったりもしていますが、昔に比べると地上波放送が減ったり、一般の方がバレーボールに触れる機会が少なくなっていると痛感します。その現状を踏まえ、もっと盛り上げていきたいし、宣伝・普及活動も告知にも力を入れたい。競技を盛り上げるためにも、まずはパリ五輪出場権を確実に取ってほしい(※取材日:24年4月10日時点)。後輩たちが全力を注げるように最大限、応援していくつもりです。

――最後にご自身の経験を踏まえて、ジュニアアスリートにアドバイスを頂けますか。

私たちの時代は「スポ根」じゃないですが、厳しさが先に来ていたと思うんです。でも、今の時代はバレーボールの楽しさや魅力を一番に感じながらプレーしてほしい。
「楽しい」と思えれば、何事も努力は苦じゃなくなりますよね。やっぱり「楽しい」から始まって、目標を持って取り組んでいければ、必要なことも整理しやすくなる。

「とにかく頑張る」「勝つために戦う」ということではなくて、いろんなテクノロジーやデータを駆使しながら、楽しんで自分のレベルを上げていってもらえれば一番いいですね。アスリートは栄養・運動・休養も重要。そういうことも考えながら、プレーをエンジョイしてもらいたいと思います。
狩野舞子/かのうまいこ
1988年7月15日生まれ 東京都三鷹市出身
八王子実践高校―久光製薬スプリングス―パヴィーア(イタリア)―ベシクタシュ(トルコ)―久光製薬スプリングス―PFUブルーキャッツ

家族の影響で幼少期からバレーボールに接し、小学校4年から三鷹市大沢スポーツクラブに入って本格的に競技を始める。八王子実践中学3年時には2004年アテネ五輪日本代表候補18人に選出。「中田久美以来の中学生代表」と騒がれた。

八王子実践高校を卒業した2007年に姉・美雪が所属する久光製薬入り。翌2008年に右アキレス腱断裂の重傷を負い、長期離脱を強いられたが、2009年に日本代表に正式登録された。だが、2010年には左アキレス腱断裂と再びケガに悩まされることになる。リハビリ途中の7月に久製薬を退団。復帰直後の11月にイタリア・セリエAのパヴィーア移籍を決断する。さらに翌2011年10月にはトルコ1部・ベシクタシュへ。両国での国際経験を高く買われ、2012年ロンドン五輪日本代表12人に滑り込み。28年ぶりの銅メダル獲得に貢献した。

五輪後の2012年9月には久光製薬に復帰。セッターに転向するも、2015年6月に引退を決意。1年間は解説業に携わったが、2016年7月にPFUで現役復帰。1シーズン存分プレーして完全燃焼でき、2018年5月にキャリアに完全に終止符を打った。その後はメディア露出やバレーボール教室など多忙な日々を過ごしている。

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