「人生とシーカヤックの旅は似ている」能登で被災のインストラクター 一家で “世界遺産”・宮島に移住 支援や優しさに “恩返し” 誓う 広島

“世界遺産の島”・広島県廿日市市宮島。能登半島地震で仕事と住処を失った男性が新たな生活を始めました。「人生とシーカヤックの旅は似ている」そう語る男性と家族の船出を追いました。

シーカヤックのガイド兼インストラクター・西村剛志(にしむら・つよし)さん。5月、石川県七尾市から宮島に移り住みました。

西村さんの愛称は「ジョニー」。「TSUYOSHI」の発音が難しいと、スコットランドで知人に名付けられたニックネームです。

勤めていたデザイン会社を退職し、絵画を学ぶためにヨーロッパに渡ったのは20代の頃でした。ヨーロッパ各地を回りながら筆を磨きましたが、納得いくものが描けないことに打ちひしがれていたとき、オーストリアで知人から誘われたのが山歩きでした。

作品のモチーフだった自然の中に自らの身を投じると、自然そのものの魅力に夢中になり、いつしか自然の中で仕事をしたいと思うようになりました。

30代でニュージーランドに渡ると、山岳ガイドとしてのキャリアをスタートさせます。山の「翻訳家」を意味する「インタープリター」。登山だけを目的とせず目の前に広がる自然の美しさを観光客に伝える仕事に心を奪われ、気づくと7年が経っていました。

「山はより知るためには海を知った方が良い」現地の仲間からのアドバイスに、活躍のフィールドを海にも広げようと考えていたころ、父親の病気などもあり、帰国の途につきます。その後、父親の経過も良くなると、海への探究心に火がつきました。

飛び込みに近い形で沖縄県の西表島に移り住むと、本格的にシーカヤックのインストラクターとして経験を重ねました。

「シーカヤックのインストラクターを始めてから、能登の海のことを考えるようになったんです。帰省したとき、故郷の海を実際にカヤックで漕いでみたら、これはすごいと。こんなフィールドのある場所に住んでいたんだなとようやくその時に気づきました」

能登半島の島々に囲まれた七尾湾は、荒々しい印象の日本海にあって波は穏やか。シーカヤックには最適ともいえる環境でした。

故郷を長く離れたことで、かえってその素晴らしさに気がついたジョニーさん。西表島で出会った妻の遥奈さんと石川・七尾市に居を構えたのはおととしのことでした。

観光客の多いハイシーズンはガイドを、それ以外の時期は広告デザインを請け負う生活を続けるうち、地元の観光協会や老舗旅館との連携も深まりました。多くの協力を得て、ことし、シーカヤックやセーリング・サイクリングなどのアクティビティを通して能登の魅力を伝える事業をスタートさせる予定でした。その準備を進めていた矢先、能登半島を大地震が襲いました。

「揺れ始めてから全く動けない状態、それぐらいの横揺れでした。砂ぼこりが落ちてきて、いろんなものがまるでスローモーションのように崩れていきました」

ショップ兼自宅は傾き、住むことができない状態に。妻の遥奈さんと避難生活を余儀なくされます。カヤックは数台が潰れてしまい、デザイン用の機材も被害に遭いました。地震は地元の観光業にも大きな打撃を加え、進めていた事業は暗礁に乗り上げてしまいました。

「『一緒にやっていこう』と言ってくれていた企業などのこともあったし、能登に残って復興のために今後のプランを立てていこうという思いもあったんです。能登のために何かしなくてはいけない、そう悩んでいた私に友人から『今、一番自分にとって大切なものは何かを考えたほうがいい』と声をかけられました。一番優先しなければいけないもの、子どもが安全に生まれて、妻もストレスのない環境で出産を迎えることができる場所、それを提供することが自分の一番の仕事だと気づいたんです」

被災時、妻の遥奈さんは3か月後に第一子の出産を控えていました。「能登で産みたい」と願っていた遥奈さんですが、通っていた病院も断水に。能登での出産はかなわなくなり、2人は遥奈さんの実家がある大阪に身を寄せることになりました。

ジョニーさんは大阪と石川を行き来しながら、ボランティアを続けていました。遥奈さんの陣痛が始まった日も、七尾市から車で駆けつけて出産に立ち会うことができたました。

2人でカーラジオを聞いていたとき、流れてきた曲。「 “世界に一つだけの花” 妻が『一花』がいいんじゃないかって。2人とも『いいね』って」

一花ちゃんが生まれ、守るべき家族は増えましたが、ジョニーさんは仕事も住む場所も失ったままでした。

そんなジョニーさんに助け船を出したのは、宮島でシーカヤックのインストラクターをしていた 春名優一 さんでした。

「『もしも今シーズン能登でショップをオープンできない状況なら、宮島で道具を引き継いでやってみませんか』というメッセージをいただいたのが最初です」

宮島での仕事をジョニーさんに引き継ぎ、ゲスト用のカヤックも譲るとの申し出でした。2人はそれまで直接会ったことはありませんでしたが、SNSでジョニーさんの状況を知った春名さんが共通の知人を通じて連絡をしてくれたのです。

もともと3月いっぱいで宮島を離れる予定だった春名さん。仕事道具も別の業者に譲る予定でしたが、相手に掛け合ってジョニーさんに残せるよう取り計ってくれました。借りていた家も大家さんに掛け合い、自分の車も残してくれました。

3月、宮島で初めて会った2人はカヤックで宮島を回りました。ジョニーさんは、春名さんの優しさと宮島の美しさに触れ、地元を離れることを決断しました。遥奈さんも賛同し、一花ちゃんを連れてまずは1年間、宮島への移住が決まりました。

慌ただしい引っ越しが終わったのは、5月のことでした。新しい自宅はターミナルから歩いて約10分の場所にあります。観光地から一歩入れば、古い建物が肩を寄せ合う、静かな島の町並みが続きます。

若い親子をご近所も温かく迎え入れてくれました。遥奈さんにとって高齢のお隣さんとの井戸端会議は新鮮な楽しみの一つです。仲間もできました。ジョニーさんを宮島に誘った春名さんとも親しかった 沖野比呂海 さん。町内で帆布店を営む本人も結婚を機に広島市から宮島に移住しました。

「カヤックで島の裏の方に行って、観光地として整備された場所とは違う宮島の面白さを伝えてほしい」(沖野さん)

開業に向けてジョニーさんは宮島の歴史も学んでいます。文献を読んだり、町内を回る人力車の俥夫から話を聞いたり。海岸のあちらこちらで見かける小さな社の多さに、「神の島」宮島の奥深さを感じるといいます。

慌ただしい日々ですが、ふとした瞬間に能登に残した友人たちの姿が浮かびます。

「こっちは大丈夫だからってみんな言ってくれるんですね。言ってくれるけど、やっぱり一緒にやってきた仲間なので当然気にかかりますし。がんばっていこうという気持ちと、どうして申し訳ないなっていう気持ちとミックスで…。おそらく、ことしはずっとこうだと思います」

そして開業の日、平日ともあって事前の予約はありません。ゆったりとした船出となりました。

「シーカヤックで島渡りをしていると感じるんです。夢や目標には一直線には進めない、必ずどこかを経由しながら少しずつ近づいて行くんだと。人生とシーカヤックの旅はとても似ているなって。本当にたくさんの方に助けていただいていま、家族はこの島にたどり着くことができました。感謝しても返せないものばかりですが、宮島の良いところを紹介し、一人でも多くの人に『また宮島に行こう』って言ってもらえるような、そんなお手伝いができることが僕らの恩返しだと思っています」

夢の途中でたどり着いた宮島。パドルを一かきすれば、カヤックは瀬戸内の穏やかな水面を進みます。海はふるさと・能登ともつながっています。

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