わが町の戦争

 小型のボートに爆弾を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」の基地が旧南串山村の京泊港につくられたのは1945年の春。飛行予科練習生(予科練)の若者たちが配備され、分散して民泊しながら命を捨てる覚悟を固めていた。出撃命令の直前に戦争が終わった▲普賢岳の中腹には重さ2トンの送信機を人力で運んでこしらえた陸軍のレーダー基地があった。米軍機の爆撃が愛野村国民学校を襲ったのは45年の7月30日、防空ごうに入りきれずにいた児童14人が亡くなった。国見町神代地区の海岸が銃撃に遭ったのは終戦の前の日のこと…▲わが町の戦争の記憶を学び、語り継ぐ。雲仙市の小、中学校で「ふるさと平和学習」が今年から始まった。市立千々石第一小6年生の教室に昨日おじゃました▲当時を知る人のインタビュー動画などを交えながら授業が進む。講師は本紙の記者。教材の監修もお手伝いさせていただいたと聞いた▲もしも自分がその場所にいたら、その頃の子どもだったら-葉っぱのシールに記した感想を児童が最後に持ち寄って、新しい「平和の木」ができあがる。大きく育つといい▲感想をのぞき見してみた。〈私たちは幸せなんだな。1日1日、1時間1時間を大切に使おうと思いました〉。筆圧のしっかりした文字が印象的だった。(智)

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