しのぶ声相次ぐ 山田拓民さん死去 理論と情熱の人 「5団体」のまとめ役

 理論と情熱を持って長崎の被爆者団体を取りまとめ、支えてきた。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の事務局長を30年以上務めた山田拓民さんが亡くなった28日、共に活動した被爆者からは功績や人柄をしのぶ声が相次いだ。
 「語り部をしないか」。長崎被災協の田中重光会長(80)は、山田さんの誘いをきっかけに自らの被爆体験を語り始めた。長く断っていたが、「兄のような存在」の一言に勇気をもらったという。事務局長として被爆者援護法の制定に向け会員を引っ張る姿が忘れられない。「まだ長生きして指導してほしかった。山田さんの意志を受け継がないと。今はゆっくりと休んでほしい」と悼んだ。
 県平和運動センター被爆連の川野浩一議長(81)は「被爆者5団体にとっての“事務局長”のような人」と慕う。山田さんは15年前、核攻撃を想定した県国民保護計画案の撤回を求める活動で、長崎被災協や被爆連など5団体の結束を提案。以来、さまざまな問題で協議や学習会を重ね、意見を取りまとめる流れができた。「酒好きで明るい性格。物事をよく理解し、常に活動の中核だった」
 一昨年までの3年間は、「長崎の証言の会」代表委員も務めた。同会事務局長の森口貢さん(84)は、山田さんが1989年、被爆者運動の先頭に立つ故・山口仙二さんと共に、米艦船の艦長が供えた花輪を踏み付ける様子をテレビで見たという。当時現職の高校教諭だった山田さんの処遇を心配したが、後に山田さん本人から「仙二さんだけに踏ませるわけにはいかないと思った」と聞いた。森口さんは「理論的な人だったが、強い熱量や情熱も持っていた」と惜しんだ。
 県被爆者手帳友の会の朝長万左男会長(78)も、山田さんは「感情だけではなく(核情勢などを踏まえ、核廃絶を)理論的に訴えた」と語る。真面目で、長崎市の核廃絶に向けた方針に物足りなさを感じると、「真剣に食ってかかる人」だった。
 田上富久市長は「被爆者援護の充実を前進させた功績者」と振り返る。歴代の長崎被災協会長を支えつつ、自らも発信する姿が印象的だったといい、「言葉は鋭く責任感が強い人。被爆者なき後を心配する被爆者が亡くなるケースが増え、若い世代につなぐ大事な時期を迎えたと感じている」と語った。

© 株式会社長崎新聞社